[3/20の事です]
体力回復のためにサウナに行った
ということなので、そのまま帰れば良いのですが
せっかくここまで来たのだから、と思ってしまう
GoogleMapを見ると、「行ってみたい」マークの緑が2つある
いずれも御門訴事件(ごもんそじけん)の関連
歩くと大変だけど、車でならそれほどかからない
行ってみよう
御門訴事件は、わが東久留米市や西東京市など多摩地域広域での、
明治維新後早々の大きな事件
多摩地域の郷土資料館に行くと、どこでもこの話題が出てきます
御門訴事件(ごもんそじけん)
過去にも書いたので、良かったら読んでね
西東京市を巡るために
日本は稲作なので、年によって大きく収穫が変化
昔から、凶作にどう対応するかが重要で
倉に凶作の時のための備蓄米を置いておく
松平定信の時は、かなり効果のあった方法
明治維新の時期って慶応3年(1867年)から3年連続した不作と
時期的に重なっており、特に関東の農村では大打撃
新政府は備蓄米を貯めるようにと各県に指示
政策の時期が間違っています
凶作の時に、備蓄が出来ようはずがない
品川県(品川県というのがあったんですね)では、
新政府に言われた訳だから、推進しなきゃいけない
県下の農民に米の供出を命じた
ありえないっ!
今の市でいうと西東京市、武蔵野市、小金井市、小平市、国分寺市、東久留米市に渡る武蔵野の12村が一致団結
品川県と交渉するが、品川県は譲らない
リーダーの忠左衛門と伊左衛門は宿預(やどあずけ)。未決拘留です
明治3(1870)年、年が明けても忠左衛門、伊左衛門は宿預となったまま、
村には帰ってきませんでした。
さらに、1月7日には12か村の村役人が県庁に招集され、
県側の要求を拒否した全員が宿預となってしまいます。
この対応に業を煮やした12か村は、再び決起。
1月10日夕方、4、5 日分の弁当を用意し、
蓑笠姿で品川県庁へ向けて行進を開始しました。
その数は記録によってまちまちですが、
700から800人ほどだったといわれています。
こうした徒党を組んでの運動に、 東京中が騒然。
10日夜、県庁に詰めかけた農民たちは、県庁の門内に入れば強訴となるため、
あくまでも門前から訴状を提出して嘆願する門訴をします。
しかし品川県の「知事を引き出すつもりか」という声に対し、
農民が「左様」と答えると即座に門が開かれ、
武器を持たずに訴える農民めがけて切り込み、
大砲も打ち出すという武力で事態の収束にあたりました。
多数の逮捕者が出るとともに、厳しい取り調べが始まります。
取り調べには「痛吟味」という拷問が用いられたとされ、
野中新田名主・定右衛門、上保谷新田百姓・国蔵は獄死、
そして忠左衛門は病気で出獄後に死亡するなど、犠牲者を出しました。
県は18日には村々に告諭の高札を立て、
村役人らに先導された百姓らの罪は問わないとします
結局は廃藩置県で品川県自体がなくなってしまい、
この事件は幕を閉じることとなります。
関連地
招魂塔(しょうこんとう)
上保谷新田の共同墓地(しらし窪墓地)にあります。
明治12(1879)年に新田の「総村中」が建立しました。
建立の趣旨は記されていませんが、
御門訴事件の犠牲者の慰霊碑とされています。
裏や台座に上保谷新田の村人たちの名が刻まれています。
門訴当日のリーダーであった平井虎之助(のちの週作)が土地を提供して、
村内に散在していた事件関係者のお墓を集めて共同墓地とし、
招魂塔を建立したと伝えられています。
御門訴事件記念碑(倚鍤碑)(いそうひ)
御門訴事件を記録し、 あわせて井口家の犠牲者を慰霊するために
明治27年に建立されました。
碑文は、自由民権運動家、初代衆議院議長であり、
名文家として知られる中島信行によって書かれました。
倚鍤(いそう)とは、鍬に寄りかかって生きるという意味があります。
帰ろうかと思ったのですが
もう一つ、「行ってみたい」マークを発見
御門訴事件関連、もう一つあったか
真蔵院
農民たちが集まって会議し、門訴を決意した場所です
これまた多摩地域の郷土資料館では良く出てくる名主、
川崎平右衛門の慰霊塔もありました
川崎平右衛門定孝(1694~1768)は、押立村(府中市)の名主で、
元文三年(1738)の武蔵野新田の大飢饉に際し、私財を投じて救助にあたりました。
その功により幕府の武蔵野新田世話役に登用され、
南・北武蔵野新田八十二小村の復興に力を尽くしました。
この慰霊塔は寛政7(1795)年に建てられたものです