ことば日本史、戦国時代から
伊達政宗
米沢を本拠にしていた戦国大名、伊達政宗は、
天正十七年(一五八九)、会津の名門、 蘆名(あしな)氏を破り、
領土を大きく広げて、全国でも有数の大大名となった。
だが蘆名氏と戦ったことは、豊臣秀吉によって禁じられていた私戦であり、
勝手に会津を領したことは、秀吉の怒りをかった。
「ただちに上洛せよ」
という秀吉の使いがやってきた。
迷った末に、政宗は小田原攻めの途中だった秀吉のもとへ向かう。
そのとき政宗は、鎧のうえに真っ白な麻の陣羽織を着て、
髪を茶筅結びさえできないくらい短く切っていた。
喪服仕立てで死の覚悟を示して見せたのだ。
だが秀吉は、会うことも許さず、政宗を箱根の底倉に押し込め、
前田利長らに詰問責めにさせた。
押し込められた政宗は、
秀吉とともに千利休が小田原に来ていると聞いて、茶の稽古を所望する。
それを聞いた秀吉は政宗を見直し、面会を許したという。
政宗は、蘆名氏領を没収されただけで、米沢に戻ることができた。
このエピソードにうかがわれるように、
政宗は派手なパフォーマンスで人目を引くことが多かった。
文禄元年(一五九二)、秀吉が朝鮮への出兵を命じたときには、
割り当てられた出兵員数が千五百人であったにもかかわらず、
三千人の軍勢をひきいて出陣した。
しかも、紺地に金の日の丸を入れた幟を三十本も立てて、
美しい馬にかけた黒母衣には金の半月印をつけ、
兵士らは豹、虎、熊の皮、あるいは孔雀の尾羽を飾り、
黄金でのしづけした太刀をはくという、ひときわ目立つ装束で飾っていた。
京の見物人たちは、驚き、感心する声をあげたという。
また政宗は、「鄙(ひな)の華人」と呼ばれるほど、
文芸、芸道に深く通じており、とりわけ茶道に精進していた。
だから派手というだけでなく、センスもよかったのである。
そこで、この伊達政宗のダンディズムにちなんで、
江戸時代には華美な風俗を伊達風というようになったという。
実際には、伊達政宗がいた時代よりも古くから、
ダテという言葉は使われているので、
元々の語源が政宗ということではない。
心を立て通し強く意気地を張るという意味の
「たてだてしい」が略されたものであろうという。
ただそこに、伊達政宗の印象や伝聞が、
加わっていったのだと思われる
もっとも今では、見栄を張っただけのおしゃれのことや、
「ダテめがね」「ダテじゃない」などというように、
実質をともなわないという意味で使われるようになった。