徳川慶喜だけ、なんで寛永寺じゃないかの謎が溶けた

今日は、今度の谷根千1111円と寛永寺のイベントの下見です。

イベントリーダーと一緒に下見に来ました。

その中で、今日は、徳川慶喜の話をします。

谷中霊園
徳川15代将軍は家康と家光は日光だけど、
それ以外は、菩提寺の増上寺か寛永寺に墓がある筈。

なのになぜか最後の将軍、慶喜だけは谷中霊園。

不思議だなあと思っておりました。
こんなに近いのに、入れてあげれば良いのに

現地に行くと、いつもの見慣れた徳川家の墓ではありません。
亀の甲羅みたいな感じ。

ガイドさんがおられました。

あのう、なんであの形してるんでしょうか

それはですね

大演説が始まりました
説明を聞いて、納得納得大納得です。
素晴らしかった。

寛永寺だった
そもそも、寛永寺じゃないという認識が間違っていた。
案内板のところに書いてある住所
寛永寺と書いてある

谷中霊園の中には、都の敷地と寛永寺の敷地があり
慶喜の墓があるところは寛永寺

寛永寺に墓はあったという事です

なぜ別の場所に
だとしても、なぜ別の場所なのか
綱吉や吉宗の眠っている霊廟の中に入れてもらえなかったのか

その答えは
宗教が違うから

これは、なぜ形が違うのかの答えにもなります。

入れてもらえなかったわけではなく
慶喜の強い希望で、仏教ではない別の宗教を選んだからです。

神道です。
元々、天皇大好き人間なんです。
慶喜は「尊王」の総本山といえる、水戸藩で育つ。

ところが、鳥羽伏見の戦いで、
薩長側から錦の御旗が示される

朝廷は薩長につきましたよ。
従って君は朝廷の敵、「朝敵」ですよと。

そんなあ、前から天皇大好きって言ってるのに。

と言って逃げ帰ったぐらいですからね。

水戸家は仏教ではなく神道。

だから大政奉還もした。

明治35年
明治も随分たって二人の人が動いてくれる

一人は勝海舟
色々取り持ってくれる。

ただ、明治32年に死去。

その後、力になってくれるのが
あの、一橋家ゆかりの渋沢栄一。

時の首相桂太郎に直談判

何とかしてやってくれ

結果許されたのが、
徳川宗家ではなく
徳川慶喜家というのを新たに作っていいです。
徳川慶喜家は最高位の公爵として与えましょう。

準備
こうして、ようやく徳川慶喜は、
自分のための墓の準備が始められることになります。

まずは日光に行き、家康の墓にお参り。

そして京都に行き、江戸時代最後の天皇、孝明天皇の墓参り。
そして、その孝明天皇の墓と同じ形を小さくすると決める。

最後に寛永寺へ。
墓を作りたいのですが、徳川宗家ではありません。

分かりました。
それでは、谷中霊園内に、一橋家の墓地があるので、
その隣でいかがでしょう

分かりました。
よろしくお願いします。

ただ、その時点では、
寺院の敷地内に仏教ではない神道タイプのお墓を作ると言っていない。

作り始めて

ちょっとちょっと、
神道タイプとは聞いていませんが。

そこから説得を初め、
最後には寛永寺も折れる。

レイアウト
墓地の敷地内のレイアウトも全部決める。
自分の左横に、正室
後ろに側室。

右横に、続いていくであろう徳川慶喜家の祖先たちの墓
その後ろに、一橋家から連れてきた、身の回りの世話を長年してくれていた
実質的な奥さん代わりの女中さんの墓まで。

強い意志が分かったので、最後には、寛永寺も折れたのでしょうね。

索引はこちら
[徳川十五代将軍]シリーズはこちら(少し下げてね)

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