[首相]52 村山富市。史上最高の眉毛

このあたりになってくると、つい最近ってイメージです
まさか、まさかの首相でした
眉毛もすごかった

なんと、まだご存命で101歳!

村山富市

羽田孜内閣のとき、新生党、日本新党、民社党などが
社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。
社会党委員長村山富市は、事前の連絡がなかったと強く反発し連立政権を離脱した

自民党は、11ヶ月の野党生活のつらさから、総裁の河野洋平が
はみ出した社会党に声をかける
村山さんを首相として担ぎますので、組みませんか

自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権(「自社さ」政権)が1994年(平成6)6月30日に誕生する。
社会党委員長が総理になったのは、
1948年(昭和23)に片山哲(かたやまてつ)内閣が退陣して以来、
16年ぶりのこと。

戦後政治のなかでも、これほど矛盾に満ちた内閣はない。
長く対立してきた保守と革新の2大政党の連立であり、
与党第1党が第2党の党首に総理の座を譲るなど、
常識では考えられない政権の誕生となった。
その背景には、反小沢一郎という感情的な要素も絡んでいた。

社会党総理の登場で日米安全保障条約防衛政策に対する懸念が生じたが、
村山総理は7月20日の衆議院本会議において、
「自衛隊は憲法の認めるものであると認識する」
「日米安保体制は必要だ」と表明して、従来の社会党の政策を転換。
「日の丸は国旗、君が代は国歌である」
「原子力発電は過渡的エネルギーとして認める」と、
現実路線を歩み出した。

相次ぐ災害事件
1995年(平成7)1月17日に阪神・淡路大震災、
3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。

いずれの事態でも、総理と内閣官房長官を社会党が務めた総理官邸の対応が遅れ、
危機管理能力の低さが国民からきびしい評価を受けた。
同年7月の参議院選挙で村山総理の社会党は大敗したものの、
自民党が46議席を得るなど、「自社さ」3党ではかろうじて過半数を維持。
投票率は44.5%と過去最低となり、
比例代表区選挙では野党の新進党が第1党となった。

8月15日、戦後50周年にあたって村山総理は「村山談話」を発表する。
先の戦争について「国策を誤り、植民地支配と侵略によって、
とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との歴史認識を示し、
「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ち」(以上、原文からの要約)を表明した。

また、元従軍慰安婦に一時給付金を支出する「女性のためのアジア平和国民基金」の創設や、
被爆者援護法の制定などでは社会党政権らしさを発揮した。

しかし、バブル崩壊にともなう住宅金融専門会社(住専)の不良債権問題や
沖縄基地問題では、なす術がなく、1996年(平成8)1月5日、
村山総理は退陣を表明する。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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