慶喜、いよいよ将軍へ

慶喜の幕末シリーズも第三弾

いよいよ、慶応2年(1866年)になります。
1月の薩長同盟に始まり
長い長い1年です。
大政奉還の前年ということになります。

長州征伐
6月、幕府が長州に宣戦布告。
薩長同盟をまだ知らない。

本来、家茂が先頭に立つべきなんだけど
足止めを食らった大阪城で病気にかかり
悪化の一途をたどった。

極めて良くない戦況も家茂には知らされない。

7/20 家茂死去。

徳川宗家相続
家茂の後をどうするか。
誰の目から見ても明らか。

慶喜しかいないに決まってる。
すでに実質将軍の働きをしている。

ただ、慶喜は拒否。

絶対やらない。
やらないといったらやらない。

3つのキーワードはお話ししましたね。
やりたがりのくせして、権力欲がない。
本気で拒否している。

説得されて次に出してきた案が

仕方ない。徳川宗家は継ごう。
ただし、将軍は継がない。

は?
どう違うの?

水戸藩に産まれ、
可能性がほとんどなかった、徳川宗家。
お膳立てされて、一橋家に養子に入った。
徳川宗家を継ぐのはそれなりに感慨深いものがある。
死去の7日後に徳川宗家を継いだ。

しかし、将軍となるとどうだろう。
今受けてメリットがあるとは、到底思えない。
松平春嶽は説得を続けるが、どうしても首を縦に振らない。

選挙
じゃあどうするのか。
最終的に、文書に明確な形で作り上げるのは、坂本龍馬その人なんだけど
同時発生的に色んなところで、似たような案が発生している。
選挙しようという案。
幕府側でも実は不明確ながらも存在する。
勘定奉行、小栗忠順(おぐりただまさ)もそのひとり。

慶喜の耳にも入り、慶喜はその案を支持する。

これでとうだろうか。

聞かされた松平春嶽は驚きを隠せない。
そんなバカな。
悲しい。

ただ、はたと思い付いた。
ひょっとすると

もしそこでご自身が選ばれたとしたら、どうなさいます?

それは、受けざるを得まい。

それか!

その案で参りましょう。

長州総攻撃
将軍は空位。誰でもない。
そんな時期なのに、
慶喜の不思議なところ。
長州に総攻撃をかけると、勅許をもらう。

春嶽は、ますますこの人のことが分からなくなる。

そもそも、長州征伐には反対だった筈。
さらに、先日、選挙案で行くとなったはずなのに
なぜ、選挙を待たずにこんな重大事を単独で進めるのか。

総攻撃開始。

前線から報告。

どうにもこうにも何ともなりません。
そうかぁ

6日後。

やめる。

ええっ
そりゃまたなんで。

どうもこうもない。
とにかくとりやめ。

朝廷に
取り止めということでお願いします。
出征宣言が8/5
中止宣言が8/14
これには、孝明天皇も大激怒。

受ける
怒りを通り越してあきれる
という表現があるけれども
まさしくその状態。

でも
悲しいかな
他に誰もいない。

選挙案にしたって、誰がどのタイミングで持ち出すのか
無駄に時が過ぎる。

もう限界。
疲れた。
もういいんじゃないですか。
このままでは幕府は自然消滅してしまいます。

受けよう。

12/5 宣下

家茂死去から、百五十余日。

年末
長い長い一年でした
となるところ

さらに
その20日後に大きな出来事が起きます。

12/25 今で言うとクリスマスの日
ほんとは新歴に直すと1月なのでクリスマスじゃないんですけどね。
孝明天皇崩御。

急にもいいところです。
12/11 風邪引いたかな。
発疹が出て
おそらく天然痘。

そういう時って毒殺説が流れるんだけど
逆に毒を盛られたとすると、10日以上生きていない筈。

悲しみにくれたのが慶喜。
最初にお話ししたように、水戸学で育ったので
慶喜としては天皇絶対。
慶喜の墓は、孝明天皇と全く同じ形に作ってあります。

そして、攘夷にこだわったとはいえ
実は一番の佐幕派。
将軍あっての朝廷だと思っていた。
後の慶喜の回想で、
この時幕府は終わったと思った。

次は子供の明治天皇。
何かを判断できる年ではない
判子押すときは
取り巻きのお公家さんが手を持ってポン。


いよいよ最終段階に入っていきます。
慶応3年
次回になります。

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