江戸の鰻はなぜ急に

前回、お蕎麦の話をしました。

今日は鰻です。


鰻も蕎麦と同じく屋台から始まりました
今はうな重が最もポピュラーですが
当時は、蒲焼きが串にして売られていました。

値段は一串16文
今の値段にして150円くらい
リーズナブルな食べ物でした

安い、うまい、栄養満点と申し分なし
たちまち、江戸の定番グルメになります。

だんだん、店を構える鰻屋も登場してきます。

煙が出るということで
一階で調理して、二階で食べさせるという店もあった
風呂に入ってもらってその間に調理という店も
藪そばみたいですね

チェーン店もありました。
江戸前大蒲焼番付に「尾張町 大和田」をはじめとして
10軒ほどの大和田。チェーン店です

江戸中期から
鰻に関しては、江戸時代に始まったことではなく
平安の昔から良く知られている食べ物

ところが、江戸時代中期あたりから
江戸で大人気になっていきます。

これには理由があって
味付けが変わったからです。

初期は、何に関しても上等なものは上方。
上方から下ってくるものということで、下りものと呼ばれていました。
一方、江戸周辺で作られるものは、下らないもの。

でも、いつまでもくだらないとは言わせないぞと
江戸周辺の生産者も切磋琢磨していきます。

まずは醤油の品質がぐんと上がる
また、上方の薄口醤油ではなく
濃口醤油と味も変わった
この濃口醤油の誕生こそが蒲焼きの味の基礎になった

さあ、そしてもうひとつ
みりんです。
江戸も初期の頃は
甘い味自体、高級で手の届かないもの

砂糖は高嶺の花な訳ですが
なんとかみりんが出回り始めます。

よしっ
蒲焼きのタレが完成だ

調理方法
元々の蒲焼きって、味も形も違っていた
開かずにぶつ切りにして串に差し、塩を振って焼いただけなシンプルなもの
その姿がガマの穂に似ているから
蒲の穂焼きで蒲焼き

味が変わり、調理方法が変わった

開くことを始めたのは関西
ご存じのように、関西の腹開き関東の背開き
関西は商人の町なので腹を割って話すことをよしとし
関東は武士の町なので切腹を連想する腹開きは忌み嫌われた。

そしてもうひとつ、関東では蒸すという行程が加わる
関東は関西より北にあるので、冬、皮が固くなる
蒸すことで柔らかくした。

白飯とコラボ
日本橋、葺屋町の「うなぎめし」正式名称は、うなぎ大野屋
ここが、ご飯にうなぎをのせることを開発した。
正確に言うと、当時はご飯、うなぎ、ご飯、とサンドイッチはしていた訳だけど

実は、思い付いたのは大野屋の主人と思いきや
お客さん
歌舞伎小屋の興業主、大久保今助
毎日のように出前をとっていた

当時、保温のために出前の場合には
温めた米ぬかを入れて、その上に蒲焼き
食べるときに米ぬかをわざわざ取るのがめんどくさい

代わりに熱々のご飯にはさんで来てよ

はい、仰せの通りに

やってみると
ご飯にタレが染み込んで、おいしいのなんの

江戸前
当初、江戸前とだけ言えば、うなぎのことを指した。

江戸前とは本来、玉川と江戸川を結んだ北側の海域
うなぎでいうと、浅草川(今の隅田川の河口)と深川で取れたものだけ

ところが人口はどんどん増えるは、人気はうなぎ登りだわ、で
たちまち足りなくなった。
千住より北側でとれた「江戸後ろ」といううなぎが登場した
それでも足りなくなって、地方で取れた「旅うなぎ」が運ばれてくることに

丑の日に、籠で乗り込む、旅うなぎ

ちょっとダメかも
看板やのれんから、江戸前の文字が消えていきます。
潔いですね
産地偽装は、記者会見して、揃って頭下げなきゃいけません

江戸前の呼称は、うなぎから寿司に引き継がれることになります。

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