[日本語の発音] 発音通りに書いた時代

[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった
[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
の続きです
「日本語の発音はどう変わってきたか」からの引用です

平安時代

平安時代に入っていきます

平安時代では文字が劇的に変わります
変わるというより、作られた、という表現の方が近い
平仮名と片仮名です

奈良時代までは、万葉仮名といって、それまで日本人が発音していた言葉に漢字を当てていたが
日本独自の文字が開発された

平仮名も片仮名も一音に対してほんの数個の字が対応する(1個ではない)
書き手にとっては語の形が安定し、また万葉仮名より書記の速度が大幅に改善しました。

書きたいと思ったことをそのまま文字にできたので、奈良時代にはなかった物語や散文などが書けるようになったのです

とっても素晴らしいのですが
日本語の発音の変化を研究しようとするとちょっと厄介になります
万葉仮名のときは、発音が変化すると当てられる文字も変わったけど
文字が固定されてしまうと、発音が変化していっても分からなくなる

それでも、研究者たちはエライ!
漢字の説明用の資料等々外国語との比較で、解析していったのです

音便
平安時代の発音の変化の特徴として、音便があります

前と後の音が繋がるときに、発音しづらい時に、音が変わっちゃう

次の4種類があります。
イ音便、ウ音便、撥(はつ)音便、促(そく)音便

ただし、この時点では、文字に「ん」や「っ」がありませんので
どう文字で表現するかとても苦労しており、安定していません
詳しくは、以前書いたこちらを見てね
「ん」がなかった

しかし、この「ん」や「っ」の例外を除いては
文字と発音は、1対1で対応していた
現在は漢字仮名混じり文だが
この頃は、全てを平仮名で書く文だった

漢字仮名混じり文の読みやすさを知っている我々からすると
相当読みにくいものだったと言える

ただ、発音の通りに全ての文字が綴られる
日本語発音史において、まれな幸福な時代であったといえる

ところが、この幸福な時代は長くは続かなかった

ハ行転呼音
言葉の中の1音目じゃない場合
ハ行がワ行の発音に変わった
ハ行転呼音と呼ぶ

最初、川はkafaと発音していたのに、kawaと発音するように変わった
でも文字は「かは」のまま
恋「こひ」問う「とふ」妙「たへ」顔「かほ」
2音目以降だけです
1音目はハ行の発音のまま、春「はる」人「ひと」冬「ふゆ」減る「へる」星「ほし」

ここから長きに渡る「仮名遣い」問題がおきます

現在は一部の例外を除いて、文字と発音は完全一致
でもなんとそうなったのは、戦後、昭和61年なんです
一部の例外とは、「を」と「へ」
〇〇へ、は「え」と発音しますよね
2音目以降のハ行なのでハ行転呼音な訳です
「を」については次回話します

前回話したように、奈良時代、ハヒフヘホはパピプペポだった
平安時代時代になると、fa、fi、fu、fe、foになる
そして、さらに、2音目以降は、wa、wi、u、we、wo
に変わる

その方が発音が楽だから

wa、wi、u、we、wo
については他にも文字がある
wa(わ)、wi(ゐ)、u(う)、we(ゑ)、wo(を)

なので、ひとつの音に2つの文字が対応するということになる

そして、さらに、平安時代の後期に、wi(ゐ)、we(ゑ)、wo(を)が変化を遂げます

その話は、次回ね

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 風呂敷

「ことば日本史」室町時代から

風呂敷

包む布については、単純な布に過ぎないので、形そのものはずっと変わっておらず
名前が、いつ「風呂敷」になったかという歴史になる

平安時代後期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(935年頃成立)には
古路毛都々美(ころもづつみ)と呼んでいた。
南北朝時代の『満佐須計装束抄(まさすけそうぞくしょう)』、康永2年(1343年)には「ひらつつみにて物をつつむ事。」と記載され、「平包」と呼んでいます

お風呂に関しては、鎌倉時代から寺院に現れ始め、室町時代に少しずつ増えていく
その頃は蒸し風呂です

将軍・足利義満が室町の館に大湯殿(おおゆどの)を建てた折、
もてなしを行うに際し近習の大名を一緒に風呂に入れたところ、
大名達は脱いだ衣服を家紋入りの絹布に包み、
他の人の衣服とまぎれないようにし、
風呂から揚がってからはこの絹布の上で身繕いをした、という記録が残っています。

また『実隆公記(さねたかこうき)』では将軍足利義政室、
日野富子(1440~96年)が毎年末、北大路の屋敷で両親追福の風呂を催し、
湯殿をもたぬ下級公家や縁者を朝から招いて入浴させ、
お斎として食事を供したと記述しています。

ここでいう風呂とは社交儀礼の場であり
一種の遊楽をともなった宴を催すことを「風呂」といい、
入浴にはいろいろな趣向がこらされ、浴後には茶の湯や酒宴が催されました。

当時の蒸風呂では蒸気を拡散し室内の温度を平均化するため、
床には、むしろ、すの子、布などを敷きました。

風呂に関わる布としては
風呂自体に敷く布と、
他の人の衣服とまぎれないように包むための布があったことになります

おそらく、「他の人の衣服とまぎれないように包むための布」は
風呂に敷く布とイメージがオーバーラップしていったのではないかと思われますが
文書に「風呂敷」という表現はまだ現れていません

江戸時代
江戸時代初期、都市生活の発展を反映し、
湯屋営業も普及し、入浴料をとって風呂に入れる銭湯が誕生しました。
『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』には、
天正19年(1591年)に伊勢与市が銭瓶橋に銭湯風呂を建て、
永楽一銭の入浴料を取ったとあります。

蒸し風呂ではなく、湯を張った風呂でした。

湯具としては手拭・浴衣・湯褌・湯巻・垢すり(呉絽の小布)・軽石・糠袋・洗い子などを
布に包み銭湯へ通うようになりました。
他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染めるようになっていきました。

「風呂敷」という名称に関する最初の記録は、
徳川家康没後の元和2年(1616年)に
生前の所蔵品を近親に分散した際の遺産目録のなかで、
尾張の徳川家が受けついだ明細書である『駿府御分物御道具帳』に見られます

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[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった

[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
の続きです

奈良時代

ハヒフヘホがパピプペポ
サシスセソがツァツィツツェツォだったというお話を前回しました
もうひとつ現代と大きく違う点が、母音の数です

今はあいうえおの5つの母音です
奈良時代には、なんと母音が8個もあった

学生時代に英語を覚えるとき「あ」だの「お」だのが何種類もあったのを思い出します
アメリカ人はなんちゅうめんどくさい事をしとるんか、かわいそうに
と思ったのを思い出します

奈良時代とはいえ、日本人な訳だから
そんな器用なこと出来るわけ無いんじゃないか

ただ、母音が5つ以上あるのって、現代にしても、奇っ怪な事では無いらしいんです
名古屋では8母音ある

その内訳は、既存の「あ・い・う・え・お」の五母音に加えて、「うまい」「うるさい」等に由来する母音連続[ai]が融合して成立した[æ:](ウミャー、ウルセァー:英語のhatやcatの母音で[a]の口の形で[e]を発音する)、「あつい」「うすい」等の[ui]に由来する[ü:]([u]の口の形で[i]を発音する)、「おもい」「おそい」等の[oi]に由来する[ø:]([o]の口の形で[i]を発音する)の三母音が加わった八母音である

有名な海老フリャーですね

では、なぜそんな事が分かったかですが
前回もお話した万葉仮名です

その事に最初に気づいたのが、江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)
さすが大先生

その後、昭和になって、東京大学の有坂秀世がかなり詳細に
どういう場合にどの母音が使われるか等の研究をした

しゃべって聞く事を考えると
すんなり理解してもらうためには同音意義語が少ない方が良い
もともと発音は多い方が語意が伝わり安いと言える

奈良時代が過ぎて平安時代になると、8母音がなくなるんだけど
便利なんだったらなぜなくなったんだろう

実は聞いて同音意義語の勘違いをなくすためには
発音を多くする以外にもうひとつ方法がある
単語の長さを長くして、同音意義語じゃなくしてしまえば良い

上代以前の古い段階では、語の音節数はおおむね一音節か二音節であった。
それが次第に長くなっていく
今では同じ「ひ」「こ」「と」を微妙な発音の違いで、甲乙の二種類使い分けていたのを変える
「ひ甲(日)→ひ・る(昼)」、「ひ乙(火)→ほ・の・ほ(炎)」、
「こ甲(子)→こ・ども(子供)」、「こ乙(此)→こ・れ」、
「と甲(戸)→み(水)な・と(港)」、「と乙(常)→と・こ」「こ乙と乙(言)→こと・ば(言葉)」
のように接頭辞や接尾辞を付けたり、語を複合させたりしてことばが長くなって
聞き違いがなくなっていった

発音の違いを使い分けるのが、結局大変だったんでしょうね

それでは次回、平安時代の発音に入っていきます

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] ビタ一文

ことば日本史、室町時代から

平安時代に行われていた貨幣の鋳造は、律令政府の支配力が衰えるとともに、打ち切られた。
その後、なんと600年もの間、日本では公式な貨幣は作られなかったんです
今では考えられませんね

じゃあどうしたか。
中国のお金を日本国内で使ったんです
平安末期になると、唐の銭貨が日本に流入し、
鎌倉時代には宋銭、室町時代には明銭が輸入された。

ところが、大変な事態がおきます
それまで質の良い銅銭を日本に輸出していた中国の明が、
戦争や国内政策の変更によって明銭の鋳造をストップ
日本に明銭が入ってこなくなります

お金がなければ、経済は成り立ちません
仕方ない。お金を作ろう

あちこちで、明銭を真似てお金を作ります

今なら、偽金作りは大罪ですが
無いんだから仕方ない理論です

模造銭や私鋳銭。
特に質の悪いお金を鐚(びた)銭と言います

鐚(びた)銭は、一度受け取ってしまっても
次の取引で受け取ってもらえるとは限りません

受け取り拒否の事を「撰銭(えりぜに)」と言います

できれば受け取りたくありませんが、無いものはない
よし、鐚銭2枚で、一文なら良いよ
一般的には割り引いて流通させていました。

「ビタ一文負けられない」とは、そんな
鐚(びた)銭の一文でさえも負けられないということです。

ただ、明銭が入ってこない以上、どんどん状況は悪化し
経済にかなり影響が出るようになりました

そこで、室町幕府や大名の大内氏は「撰銭令」(えりぜにれい)を出します
特に質の悪いお金は省きますから、撰銭(えりぜに)はしちゃいけません
割引もしちゃいけません
室町幕府の撰銭令は、作ってもいけません

現実の事が何も分かっていない人が作る法律はろくなもんじゃありません

それに比べて、やっぱり物事が分かっていたのが織田信長
織田信長の出した撰銭令は、お金を質によって3段階に分けて
価格差を容認した

公に認められた鐚一文

その後江戸時代になって、ようやく日本でも公式な貨幣が作られるようになります

もったいないから、銭形平治が投げていたのは、鐚銭かもしれませんが

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