[ことば日本史] 関東は時代とともに変わる

ことば日本史シリーズ
今回から江戸時代に入ります

関東
慶長8(1603)年に徳川幕府が開かれてから、箱根の関所はひじょうに重視されるようになった
「入鉄砲に出女」という言葉があるように、諸大名が鉄砲などの武器を密かに江戸へ持ち込むことと、江戸藩邸の大名の妻子が国許へ逃亡することを監視することが、関所のおもな任務だった。

そのため、江戸につながる主要街道および分岐道には、とくに険しいところをえらんで多数の関所群が配置された。箱根はその代表的な場所である。

以来、箱根から東、関八州をさして「関東」というようになった。

実は関東という語そのものはずっと古い
天平12(740)年に聖武天皇が奈良から伊勢へ行くことを
「続日本紀」で関東へ行くと表現されている

関より東だから関東で、奈良時代は、伊勢国の鈴鹿、美濃国の不破、越前国の愛発(あちら)という三関より東の地方を関東と呼んだ。

平安時代には、三関は実質的な機能を失って
逢坂関(おうさかのせき)が都を守る防衛ラインとなり、
以降は逢坂関より東の広い地域を関東といっていた。

その後、鎌倉幕府が成立すると、
朝廷に対する関東幕府という意味で関東の語が使われるようになるが、
地域名としては漠然と広い範囲をさしていて、
今日のような地域ではなかった。

関東という語が今日と同じ地域をさして使われるようになったのは、
江戸幕府ができてからのことだった。

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英検3級合格しました!

英検3級の2次面接試験
試験後、とっても危ないと報告していました
[英語] 英検3級面接試験。ひょっとするとだめかも

でも

合格!

ああ嬉しい
ダメな可能性いっぱいあったから、ホントに嬉しい

4問目と5問目は0点だと思ったけどどうだろう

ここのQ&A ってところ
えっ、2点しか引かれてないの?
嬉しい予想外

お慈悲としか言いようがない
高齢者が中学生に混じって頑張ってるし
一生懸命勉強したんだなという返答ではある
全くトンチンカンだけど、点数あげるか、ってことでしょう

つくづく、この2次面接試験は受からせてあげようというテストだと思う

これで、英語の勉強はおしまいにします
ひょっとしたら、聴力が落ちているかも知れない
英語だから聞き取れなかったというだけじゃない気がしてきた

準2級なんてとんでもない実力だと、この面接で実感した

中学生や小学生がバンバン受かっている英検3級を持っていても何のアピールにもならないけど
その歳でなんでまた英検3級受けたの?って笑ってもらえるネタにはなったんじゃないかな

小学生や中学生だらけの会場にいる自分が誇らしかった
へへん、普通はこの歳で受けないでしょ。私は受けるのさ、ってね

英語に使ってきた膨大な時間を他に回せる
追われていない感。気持ちの余裕を最近感じている

添乗もいよいよ宿泊ツアーが始まり、無茶苦茶忙しくなりそうだしね

かえすがえすも
ああ、良かったあ

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[ことば日本史] 天下分け目の関ヶ原

ことば日本史からのシリーズ
戦国時代の最後です
締めくくりはやっぱりこれ

天下分け目の関ヶ原
慶長三年(1598)、豊臣秀吉が亡くなると、
遺言にしたがって、政権は、徳川家康を筆頭とする五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行によって運営されることになった。
秀吉は死の前に五大老、五奉行に、子息、秀頼にしたがうことを誓わせた。
「くれぐれも秀頼をよろしく」
弱々しく頼む秀吉に、家康は涙ながらに、補佐することを約束していた。
だが慶長四年(1599)正月、はやくも五大老、五奉行の内部に対立が深まり、
さまざまなトラブルを通じて、家康と三成との対立が表面化した。
そのような状況下にあって、家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入る。
「天下殿になられ候」
そう評されるような行為だった。

八月を過ぎると、他の四大老はみな帰国し、
家康ひとりが残って大坂城西ノ丸に入り、五大老の権限を一人で振るうようになった。

このとき、会津に帰国した上杉景勝は、城の修築や道路の補修など、領内の整備を進めた。
誰もが、これは戦争の準備であろうと受けとめた。

慶長五年(1600)四月、家康は景勝に使者を派遣して
「上洛せよ」

景勝は、
「上洛しません」
家康は、諸大名を率いて東下し、7月21日、江戸を出陣する。

チャンスと考えたのが石田三成
よし、この隙に。
五大老の一人である毛利輝元を盟主として、家康を糾弾、挙兵した。
伏見城を攻めて近畿をおさえると、さらに濃尾へと進出してゆく。

家康は、24日、下野小山で三成挙兵の報を受け、
8月5日には小山から江戸へ帰った。

東軍につく諸大名の先発隊は、8月中旬には尾張に入り、
23日、木曽川を渡って、西軍の守る岐阜城を攻略した。

9月1日、いよいよ家康が江戸を発つ。
13日には岐阜に入り、翌日、長良川を渡って美濃赤坂で軍議を開き、
「東軍の主力は、三成の近江佐和山城を攻略し、大坂に向かう」という方針を決める。

この動きを察知した西軍は、東軍の進攻を阻止するため、
15日午前一時頃、雨をついて主力を関が原に進出させた。

午前七時過ぎ、戦闘が始まった。

関が原は、東西に四キロ、南北に二キロ程度の小さな盆地である。
そこで、東軍は九万人あまり、西軍は八万あまりという大軍勢が、激突した。

午後二時頃、東軍は勝利した。

その知らせに、各地で行われていた東西諸大名のあいだの戦闘も、
じきに終わった。
天下は、ここに決した。

9月27日、家康は大坂城に入って、戦後処理を始める。
最大の課題は、諸大名の大移封(いほう)だった。

江戸の近くや全国の要地には親藩や譜代大名を置き、
外様(とざま)の有力大名は遠く離れた地方に置くという、
江戸時代の大名配置の基本が、この戦後処理によって、ほぼ完成したのである。
天下はもはや決定的に分けられてしまった。

この戦にちなみ、大きくことが決せられる勝負の意味で
「天下分け目の関が原」、またはたんに「関が原」という。

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[ことば日本史] 伊達(だて)

ことば日本史、戦国時代から

伊達政宗
米沢を本拠にしていた戦国大名、伊達政宗は、
天正十七年(一五八九)、会津の名門、 蘆名(あしな)氏を破り、
領土を大きく広げて、全国でも有数の大大名となった。

だが蘆名氏と戦ったことは、豊臣秀吉によって禁じられていた私戦であり、
勝手に会津を領したことは、秀吉の怒りをかった。

「ただちに上洛せよ」
という秀吉の使いがやってきた。

迷った末に、政宗は小田原攻めの途中だった秀吉のもとへ向かう。

そのとき政宗は、鎧のうえに真っ白な麻の陣羽織を着て、
髪を茶筅結びさえできないくらい短く切っていた。

喪服仕立てで死の覚悟を示して見せたのだ。

だが秀吉は、会うことも許さず、政宗を箱根の底倉に押し込め、
前田利長らに詰問責めにさせた。

押し込められた政宗は、
秀吉とともに千利休が小田原に来ていると聞いて、茶の稽古を所望する。

それを聞いた秀吉は政宗を見直し、面会を許したという。

政宗は、蘆名氏領を没収されただけで、米沢に戻ることができた。

このエピソードにうかがわれるように、
政宗は派手なパフォーマンスで人目を引くことが多かった。

文禄元年(一五九二)、秀吉が朝鮮への出兵を命じたときには、
割り当てられた出兵員数が千五百人であったにもかかわらず、
三千人の軍勢をひきいて出陣した。
しかも、紺地に金の日の丸を入れた幟を三十本も立てて、
美しい馬にかけた黒母衣には金の半月印をつけ、
兵士らは豹、虎、熊の皮、あるいは孔雀の尾羽を飾り、
黄金でのしづけした太刀をはくという、ひときわ目立つ装束で飾っていた。

京の見物人たちは、驚き、感心する声をあげたという。

また政宗は、「鄙(ひな)の華人」と呼ばれるほど、
文芸、芸道に深く通じており、とりわけ茶道に精進していた。
だから派手というだけでなく、センスもよかったのである。

そこで、この伊達政宗のダンディズムにちなんで、
江戸時代には華美な風俗を伊達風というようになったという。

実際には、伊達政宗がいた時代よりも古くから、
ダテという言葉は使われているので、
元々の語源が政宗ということではない。
心を立て通し強く意気地を張るという意味の
「たてだてしい」が略されたものであろうという。

ただそこに、伊達政宗の印象や伝聞が、
加わっていったのだと思われる

もっとも今では、見栄を張っただけのおしゃれのことや、
「ダテめがね」「ダテじゃない」などというように、
実質をともなわないという意味で使われるようになった。

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