ことば日本史からのシリーズ
戦国時代の最後です
締めくくりはやっぱりこれ
天下分け目の関ヶ原
慶長三年(1598)、豊臣秀吉が亡くなると、
遺言にしたがって、政権は、徳川家康を筆頭とする五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行によって運営されることになった。
秀吉は死の前に五大老、五奉行に、子息、秀頼にしたがうことを誓わせた。
「くれぐれも秀頼をよろしく」
弱々しく頼む秀吉に、家康は涙ながらに、補佐することを約束していた。
だが慶長四年(1599)正月、はやくも五大老、五奉行の内部に対立が深まり、
さまざまなトラブルを通じて、家康と三成との対立が表面化した。
そのような状況下にあって、家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入る。
「天下殿になられ候」
そう評されるような行為だった。
八月を過ぎると、他の四大老はみな帰国し、
家康ひとりが残って大坂城西ノ丸に入り、五大老の権限を一人で振るうようになった。
このとき、会津に帰国した上杉景勝は、城の修築や道路の補修など、領内の整備を進めた。
誰もが、これは戦争の準備であろうと受けとめた。
慶長五年(1600)四月、家康は景勝に使者を派遣して
「上洛せよ」
景勝は、
「上洛しません」
家康は、諸大名を率いて東下し、7月21日、江戸を出陣する。
チャンスと考えたのが石田三成
よし、この隙に。
五大老の一人である毛利輝元を盟主として、家康を糾弾、挙兵した。
伏見城を攻めて近畿をおさえると、さらに濃尾へと進出してゆく。
家康は、24日、下野小山で三成挙兵の報を受け、
8月5日には小山から江戸へ帰った。
東軍につく諸大名の先発隊は、8月中旬には尾張に入り、
23日、木曽川を渡って、西軍の守る岐阜城を攻略した。
9月1日、いよいよ家康が江戸を発つ。
13日には岐阜に入り、翌日、長良川を渡って美濃赤坂で軍議を開き、
「東軍の主力は、三成の近江佐和山城を攻略し、大坂に向かう」という方針を決める。
この動きを察知した西軍は、東軍の進攻を阻止するため、
15日午前一時頃、雨をついて主力を関が原に進出させた。
午前七時過ぎ、戦闘が始まった。

関が原は、東西に四キロ、南北に二キロ程度の小さな盆地である。
そこで、東軍は九万人あまり、西軍は八万あまりという大軍勢が、激突した。

午後二時頃、東軍は勝利した。
その知らせに、各地で行われていた東西諸大名のあいだの戦闘も、
じきに終わった。
天下は、ここに決した。
9月27日、家康は大坂城に入って、戦後処理を始める。
最大の課題は、諸大名の大移封(いほう)だった。
江戸の近くや全国の要地には親藩や譜代大名を置き、
外様(とざま)の有力大名は遠く離れた地方に置くという、
江戸時代の大名配置の基本が、この戦後処理によって、ほぼ完成したのである。
天下はもはや決定的に分けられてしまった。
この戦にちなみ、大きくことが決せられる勝負の意味で
「天下分け目の関が原」、またはたんに「関が原」という。