[ことば日本史] 敵に塩を送る

「ことば日本史」戦国時代から

敵に塩を送る
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、
北信濃の領有をめぐって、信濃国水内郡川中島で、
長期間にわたり何度も激しく戦った。

信玄が北信を制圧する有利な展開ではあったが、
ともに兵力を疲弊させつつ、決着はつかないままになった。

その後、武田信玄は今川義元の子、氏真の領地をねらうが、
今川氏は北条氏と組んで、武田領へ通じる街道を封鎖してしまい、
甲州に塩が届かないようにしてしまった。
甲斐には海がないので塩を入手しようとすると、今川や北条の
静岡神奈川から運んでもらっていた

この民衆までも苦しめる作戦を知って義憤を覚えた上杉謙信は、
越後の塩を甲州へ送り届ける。
もう一方の日本海側からという事です
塩を入手するための残された道はそれしかないので
長年のライバル上杉謙信が、おおそりゃ良いこと聞いたと、塩をストップすれば
甲斐は滅びたかも知れません

謙信が信玄に送った手紙には、
「争う所弓箭(きゅうせん)に在りて、米塩(べいえん)に在らず」と書かれていたそう。
その荷を見た信玄は感激のあまり、思わず涙を落とした。

という有名な話ですが
実は江戸時代に創作された話。

敵が困っているときに助けることを表現するには
とても分かりやすいエピソードになるでしょう

困った人を助けようという感情は世界共通だとは思うが
こういう話が作られ、長く伝えられると
日本人たるものこうあるべし、みたいな価値観がより強くなり
国民性が形づくられるのかも知れない

ことばと価値観の結びつきを考えさせられることばだと思う

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史]もとのもくあみ

ことば日本史、戦国時代から

もとのもくあみ
戦国武将、筒井順昭(つついじゅんしょう)は、若くして不治の病におかされる
跡継ぎの順慶はまだ3歳の幼児。

しばしば看病や琴をひいて慰めるために、城に出入りしている盲目の法師を思い出した。

あの木阿弥と申す法師は、確かに自分とうり二つ。
木阿弥を影武者に仕立てあげ、死後3年間は自分の死を隠し通し、外敵の侵略を防ごう

この作戦うまくいき、3年間隠し通し、順慶は6歳で跡を継ぐことができた

お役御免
木阿弥は多くの褒美をもらい、古巣の奈良・角振(つのふり)町へ戻っていった。

とはいえ、帰って来れば、元の木阿弥、名もない一介の盲目の法師にすぎなかった。

これは『天正軍記』に記された「もとのもくあみ」の語源説。

説はほかにもあって、
たとえば、ある男が妻と別れて山にこもり木食修行をして木阿弥と呼ばれていたが、
修行をまっとうできずに妻のもとに戻ったので、
世間の人々が「もとの木阿弥」と嘲笑した。
それが語源であるという説が
仮名草子『七人比丘尼』にあるなど、諸説あって確かなものはない。

やっぱり「もくあみ」と言えば頭に浮かぶのは河竹黙阿弥
幕末から明治にかけての超売れっ子歌舞伎作家

河竹新七の名で、バンバンヒット作を発表、売れに売れる
飛ぶ鳥を落としまくっていたが
本人は、もう十分です、疲れました、とばかり引退を宣言
名前も河竹黙阿弥に変更
売れたけどもとの黙阿弥さ、ってところ

ところが、時代がそれを許さなかった
ちょっとだけ書いてくれない?

えっ、もう新七じゃなくて黙阿弥なのよ

良いじゃないですか
新七じゃなくて黙阿弥として発表すれば分かりゃしない

そうかなあ、じゃあちょっとだけ

これがまた、大ヒット

黙阿弥さん、あとひとつだけ

ええっ?ひとつだけね

とか言いながら、新七時代よりもっと売れに売れる

独特の七五調の名台詞
歌舞伎の台詞で思い浮かぶのは、だいたいこの人の作品だと思って良い
「知らざあ言って聞かせやしょう」
「月も朧(おぼろ)に白魚の」「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」
「問われて名乗るもおこがましいが」
「しがねえ恋の情が仇(あだ)」「死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ」
「絶景かな、絶景かな」

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「行ってきます」は行くだけじゃない

身近にあふれる「神社と神様」が3時間で分かる、という本を読んでいたのですが
その中に絶対毎日口にするのに意味を分かっていなくてビックリした言葉があったので紹介します

神道の考え方には、言霊(ことだま)という考え方があります
魂はどこにも存在しますが言葉にも付着して神としての力を発揮する

思いやりや優しさをもって、よい言葉を使ったならよい言葉で帰ってくる
それが言葉に魂が宿るという「言霊(ことだま)」進行です

その例として書かれていたのが「行ってきます」でした

行ってきます
毎日、「行ってきます」と言って家を出ます
この言葉の意味を考えた事もなかった
行きますよ、という宣言だとしか

行ってらっしゃい、は「はい行きなさい」くらいの意味だろうと

違っていました

行って来ます
すなわち「行きます」と「帰って来ます」の合体版

もうすでに行く直前において、帰ってくることまで一緒に宣言している

行ってらっしゃい
「行きなさい」と「帰ってらっしゃい」の合体版

行ってきます、は単なる宣言ではなく
そこに言霊が宿るから、言葉にして発することで、神の力が働き
無事に帰ってくることができる

行ってらっしゃい、を口にすることで
帰ってきて欲しいという願いが表現され
これでまた、無事に帰ってきてもらう事ができる
引き戻しの言霊というそうです

ただいま(戻りました)
言霊に守られ、約束通り無事に戻る事ができました
神様ありがとうございます

お帰りなさい
約束を守って帰ってきてくれてましたね。ありがとうございます
そして、言霊で守ってくれた神様ありがとうございます

行って来ます、と言っても、行ってらっしゃいと返してもらえない独り暮らしの人なんていっぱいいる
私はなんて幸せなんだろう
その確認が毎日できている
何が成就できる訳でもない、平平凡凡な日常であるという事の幸せ

歴史上、行ってきますと言えなかった事がある
神風特攻隊
失敗して帰ってくることは恥とされた
「行ってきます」とは言えなかったらしい

「行きます!」

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[ことば日本史] 太鼓判

「ことば日本史」戦国時代から

太鼓判
武田信玄は甲斐の黒川山、中山、信濃の金沢などの金山から採掘した金を、
一定の量目と品位をもつ貨幣に鋳造した。
甲州金(略して甲金)と呼ばれるものである。
鋳造自体は父の信虎時代に始められたが、信玄が整備して品質を高めた。

1番価値が高い一両金を筆頭に、その1/4の価値である一分金、さらにその1/4の価値である一朱金……と分けられていたのですが、
この中で2番目に価値の高い「一分金」のデザインになります。
甲州金の一分金は丸い金貨なのですが、
その周囲に太鼓の皮留めに似た小さな丸印が装飾されています。
この装飾こそが「太鼓判」なのです。金が削り取られるのを防ぎ、
価値を保証するためにつけられたともいわれます。
価値を保証する、すなわち太鼓判、ってことになります

甲州金は、江戸時代になっても特例として、
甲斐一国にかぎっての地域通貨として流通が許され、
幕府がこれを廃止しようとすると、
激しい抵抗運動が起きるというほど定着し、愛着がもたれていた。

ただし江戸時代の甲州金は太鼓判とは呼ばれていない。

太鼓判という言葉は、いったん定着すると、太鼓のように丸い大きな判というイメージが生まれ、
有力者が実際にそのような判を用いることも行われて、すっかり意味が変わったのである。
「太鼓判を捺す」という用法も生まれた。
また、そのような立派な判をついた文書が太鼓判と呼ばれることもあった。