レトロな飲み物、そりゃあラムネ

飲み物って、色んなのがあって
レトロな思い出があちこちにある

でもレトロな飲み物と言えば基本中の基本
ラムネでしょう

ラムネ
日本にラムネが最初に登場するのは
実にペリーの黒船来航まで遡る

交渉にあたった浦賀の奉行らが初めてラムネと出会ったという
ラムネを開けた時の「ポン」という音に驚き
思わず刀に手をかけたらしい。

当初はその音から「ポン水」と名付けられた

この時は外国で製造されたラムネですね

日本初の製造
なんと明治元年に清国のアリンという人が京橋に製造所を作る
そして、すでに翌年にはその弟子として働いていた鈴木乙松が独立
築地で洋水舎を設立
「ジンジンビア」という名で製造を開始している

明治維新と文明開化を調べるといつも驚かされる
やることなす事、とにかく早い

そして、明治末期には70件を超える製造所ができていた

ラムネの瓶
実は最初はビー玉は入っていなかった。

栓はコルクを針金で止めたものというから
スパークリングワインとかで見かけるスタイルかも

瓶はキュウリのような形をしていたから
キュウリ瓶と言われていた。

ビー玉の入ったラムネ瓶を開発したのはイギリス人のハイラム・コッドという人
日本で最初に製造に成功したのは明治20年
徳永玉吉という、冗談のような名前の人。

どういう原理かというと、中の飲料を充填したあと、
すかさずひっくり返すと
中の炭酸の圧力でビー玉がゴムパッキンに押し付けられるという
なんとも頭のいい考え方

コルク栓に比べるとメリットが多かった
ただ、その後に登場する王冠の栓にはかなわず
瓶も次第に減少していく

ちなみに、ラムネとサイダーがどう違うかだけど
いずれも特定のメーカーだけで売られているのではなく
普通名詞となっているので
それぞれのメーカーでどう違うかによる
ただ、基本、ビー玉瓶だとラムネで、王冠瓶だとサイダー
全く中身は一緒ですという事もあるようです。

どうやってビー玉入れるの?
この話題は、一度はしたことがあるでしょう
絶対疑問に思いましたよね

答えはガラスがまだ熱いうちに広い口から入れ
その後入り口にゴムパッキンをはめて口を締める

滋養飲料
当初は疲労回復に効果があると思われていた
清涼飲料水というより、滋養飲料として飲まれていた

コレラに効くと新聞に書かれたこともあり
大流行りする

ただ、アメリカからコーラが入ってくると
急速に数を減らしていく。

ちなみにラムネという名前は
レモネードが訛ってラムネになったらしい

思い出
最初に飲んだ時のことはうっすらと覚えている
何度も何度も傾けてみて
振ってみて
あの、ビー玉が山を越える角度も何度も試して
かなり長く遊べた

小平のウォーキングイベントのとき
ラムネあります
の看板掲げてるお店に立ち寄ったんだけど

そこのおじいさんが
最近のプラスチック製のラムネは良くない
このガラス瓶とは全く味が違うと自慢していた。

確かにとっても美味しかったです。

あれっ、征露丸? 正露丸じゃないの?

今度は征露丸です

日露戦争
征露丸は日露戦争の時に兵隊さんに持たせた。
だから征露丸
でも、その名前じゃいくらなんでもまずいということで名前を変えた。

こんなふうにどこかで読んだ記憶が有りました。

ってことで、
本に出てきても、
はい、知ってまーす。

でも読んでいくと、あれれって事になりました。

開発
征露丸は軍医さんが開発した

日露戦争当時、兵隊さんの間で赤痢がはやってしまった
なんと日露戦争で亡くなったのは戦争による被害が約21万人に対して
病死が22万人と、病死の方が多い

開発された丸薬は相当の威力を発揮する
ただ、最初の頃は、あまりの苦さになかなか飲もうとしなかった
困った司令官たちは会議を開いて
明治天皇からの命令で服用するようにとの通達
だから、征露丸という名にしたんですね
そうなるとみんな素直に我先にと飲むようになります

時代は変わって、太平洋戦争敗戦後
マッカーサーが厚木に降り立った後、
程なくこの時のエピソードを耳にします。

これだけではないと思いますが
強烈にマッカーサーの印象に残り、
天皇陛下が国民の精神の中にどう息づいているのかを実感する
一つの要素になります。
で、天皇陛下は死刑にならなかったし、
象徴という形で天皇制は残る

征露丸は、兵士だけでなく、
天皇陛下すらも救ったという事になります

大人気
服用しだすとその威力に、大人気となります。
人気ぶりに今度は生産が追いつかなくなります。
貴重品になり、征露丸ひと粒と鶏一頭を交換したという記録も残っているほど

太平洋戦争後
さあ、また、太平洋戦争後に戻ります。
敗戦国となると征露丸はやはりまずいでしょうと
正露丸に変わる

ところで、正露丸って、実に30社もの製薬会社から発売されている。
なんでかというと、その経緯でお分かりいただけると思います。

元々、特定の製薬会社が開発したものではない
いわば国が開発したもの
名前も国が決めたもの

正露丸はみんなのものですね、ってことで
ただですね
そこでも色んなトラブルがある。

いえいえ、元々うちが、と言っているのが
ラッパのマークのと、しきりにコマーシャルを流しているのが
大幸薬品

一度、訴訟で負けちゃってます。
正露丸は普通名詞です、との判決が出ている。

仕方ないので、大幸薬品としては
30社もある正露丸と区別してもらうために
ラッパのマークを強調し、
パッパカパッパ、パッパカパッパ、パーッパパッパ、パッパッパッパ
とラッパの音をしきりに流すことになる

征露丸
昭和レトロ商店街、の著者、町田忍さんは
ほとんどの正露丸を持っている

そしてなんと、征露丸を見つける
正露丸ではなく征露丸
今この時期に見つけた征露丸

びっくりして、すぐに問い合わせる

実際に会社まで言っちゃったというから、大したもんです。

出迎えたのが社長さん

うちは、一時期正露丸にしましたが
やっぱり征露丸に戻しましたとのこと
気合入っとります。

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正露丸の思い出
正露丸と聞いて蘇った思い出があります。
うちの近くの神戸は須磨区の「須磨の水族館」
地元では有名な水族館です。

遠足で行きました。
親も一緒だったので、幼稚園だったのかもしれません。

急に、歯が痛くなってきました。
残念ながら戦線離脱

須磨の街を親と共にひたすらに薬局を探しまわる
歯痛というと、正露丸となぜか決まっていたので
苦いよなあ、でも痛いしなあと思い、
痛いよー、というかわりに
セイロガーンと言いながら、街のなかをさまよいました。

その後どうなったかまでは覚えてないのですが
私にとっては、須磨の水族館、イコール、正露丸です。

ケロリンは銭湯のアイドル

昭和レトロ商店街、という本を読みました。

書かれているのは、ロングセラー商品たちの
色んなエピソード

あの頃、が蘇ってきます。

まずはケロリンから

ケロリン
ケロリンを販売している内外薬品は明治35年から続く由緒ある富山の製薬会社

大きく発展したあと、大正13年に一旦つぶれている

その後再建をはかるべく、新商品開発

当時は、鎮痛剤は液体しかなかったので苦労して開発した。

またたく間に大ヒット。

やっぱり名前が良いよね

どんどん似た名前の商品が出てきます。

ケロリ、ヒロリン、ケロエス、ケロゲン、ケロール、シンケロ、ケロサンなど
あやかりたい気持ちも分からんでもないけど。

銭湯
ケロリンと言えば、風呂屋の桶ですね

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それほど銭湯には行かなかった私でさえ、
やたらに印象が強い

あの独特の黄色い色に赤い文字

一昨年くらいだったか流行った映画。
テルマエロマエってのを見に行った
大好きな阿部寛が古代のギリシャ人役
何故か古代のギリシャと現代の日本がつながっていて、
ギリシャの公衆浴場の設計技師であるあべちゃんが
日本の銭湯に感動して色々取り入れる

一番笑えたのが、ギリシャの銭湯の桶に、ケロリンと書いてあったこと

最初は内外製薬から始まったんじゃないんです

商事会社。
陸和商事の山浦社長。

風呂桶を使ってコマーシャルをできないものかという発想。
スポンサーを探して歩きまわる

結構すんなり内外製薬と独占契約が決まる。

時は東京オリンピックの前年。
町中にあったコンクリート製や木製のゴミ箱もポリバケツに変えられた時期

銭湯の桶も木の桶からプラスチック製に変わろうとしていた。

浴室で使用してもケロリンの文字が消えないように
樹脂の中にインクを染み込ませる方法も
独自に開発された。

だからなんですね
なんだかいつもケロリンの文字が鮮明っていう印象がある

大評判になる

これに気を良くした山浦社長と内外製薬の忠松さんコンビ
全国キャラバン隊を組むことになります

風呂桶の営業だけではなく、薬の営業を兼ねているので
薬自体の普及にも随分役立ちます。

キャラバン隊は多い時は12台程にもなったと言います。

そうして全国津々浦々の銭湯にケロリン桶が独占していくのです。

なんと今でも年間、4~5万個のケロリン桶が納入されているそうです。

やるぜ、ケロリン。