[神社] タケミカヅチノオノカミ強し

タケミカヅチノオノカミ

オオクニヌシノカミに国譲りを迫ったことで有名なタケミカヅチノオノカミは、イザナミの死の原因となった火の神をイザナギが斬り殺したとき、剣についた血が飛び散って誕生した神です。
その名は「神秘的でいかめしく勇猛な神」を意味します。
重要な局面に登場して必ず結果を出す、高天原随一の頼れる戦闘神です。

剣との関係は深く、
国譲りの交渉の際も、海面に刀の柄を突き立て、
剣先に足を組んで座るという驚くべきポーズで、オオクニヌシを威嚇しました。
そののち、勝負を挑んできたタケミナカタノカミを屈服させ、
オオクニヌシに国譲りを認めさせたのです。
島根県の稲佐の浜です

また、神武東征の際には、タカクラジという者に霊剣を授け、
カムヤマトイワレビコの窮地を救っています

タケミカヅチは、古くから常陸国(ひたちのくに=茨城県)土着の海上保全の神として信仰されており、鹿島神宮の祭神となっています。

常陸国は古代、蝦夷(えみし)と呼ばれた東北の人々と、朝廷の勢力がせめぎ合う土地でした。
朝廷は、蝦夷ににらみをきかせるために、東北に武神タケミカヅチを祀ったのです

奈良から平安時代にかけて朝廷の中枢を占めた藤原氏は、
天皇家を補佐する自分たちの立場を、
高天原で皇祖神アマテラスオオミカミを守護するタケミカヅチに重ね、
この神を一族の祖神として、奈良の春日大社に祀るようになりました。

奈良で鹿が神様とされているのは、鹿島神宮の「鹿」から来ています

勝運上昇、武芸上達などのご利益のある神とされています。
近世(江戸時代)には、大地をゆるがそうとする地中の大ナマズを、
タケミカヅチが鹿島神宮の要石で押さえ、地震を防いでいるという信仰も起こりました

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恥ずかしがりやのくびれ

カミさんが体操のYoutubeをやっている

インストラクターのお兄さんが励ましてくれる

良いですよ
どんどんくびれが出来てきています

美ボディ!
美ボディ!

ちゃんと毎日続けていて、もう2ヵ月以上たつ

おかしいのよ

コメントの投稿とかもあってね
お陰で何キロ痩せました
という感じのがいっぱい

体重減らないのよね
むしろ少し増えた
はじめてから、あまり胃が痛くならなくなってね
食事が美味しいのよ

カミさんはどちらかというとスリムな方
あまり胃が強くないので、こってりしたものを多く食べるとすぐに胃が痛くなる
歳取ってくるとどうしても下腹が膨らんで来るので、その対策で始めたみたい
そう言われると、下腹は出てきたかも
確かにそこが改善された感じはしない
胃が痛くならなくなったというのは、健康になったということだから
万々歳だと思うのだが、本人は納得いかない様子

美ボディ美ボディって言うけど、どこの事を言っているのかなあ

若い頃から、カミさんの体のラインは見事だなあと思っていた
前から見たとき、脇の下から紐を垂らしたとすると、紐と体の線がぴったり一致する
真っ直ぐな直線
ここまでくびれが無い人も珍しいんじゃないかと思うほど、くびれとは無縁
そういう人がくびれを求めるのは難しいんじゃないかなあ

毎日言うのよ
くびれが出てきていますってね
あれだけ言うんだから、どこかにあるはずなのよ、くびれ
私のくびれは、恥ずかしがりやさんなんじゃないかなあ
体の奥に隠れているんだと思うわ

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[ことば日本史]人は城、人は石垣

ことば日本史、戦国時代から

武田信玄
武田信玄の歌だという「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」に由来する。この歌は『甲陽軍鑑』(第三九)に紹介されており、人を中心とする統治理念を語ったものとして、軍略をシンボリックに語った「風林火山」とともに信玄の名言として有名です

人は城、人は石垣、人は堀
この言葉にはいくつかの解釈がありますが「人は、石垣や城と同じくらい、戦(いくさ)の勝敗を決するのに大切だ」という意味です。企業経営でしばしば言われる「企業は人なり」という言葉に通じるものがあります。

戦国の世、他の武将が堅牢(けんろう)な城を築いている中、武田信玄は本拠地に大きな城を持ちませんでした。一重の堀だけを巡らせた、城と呼ぶには小さい「館(やかた)」に居を構えていました。
立派な城を築くよりも、強い武士を育て、戦う集団を作ることの方が大切だと考えたからでしょう。

情は味方、仇は敵なり
人は、情けをかければ味方になりますが、恨みを持たれれば敵になります。
権力で抑えつければ家臣は離れていき、敵になることもあるでしょう。
また、信玄は「信頼してこそ人は尽くしてくれるもの」とも言い、
家臣に積極的に話しかけていたそうです。

家臣を信頼し、情けをかけ、大切に活用すれば、
彼らの士気(モチベーション)、忠誠心(ロイヤリティー)が高まらないわけがありません。

武田信玄は実力主義を徹底していたと言われています。
家臣と積極的に対話し、働きぶりをよく観察し、正しく評価をしていたのでしょう。
信玄がこのような行動をしていたからこそ、
大勢の猛者(もさ)が彼を慕い、最強の戦闘集団となったのだと思います。

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[足利将軍]8-2 義政。応仁の乱の始まり

[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど
の続きです

応仁の乱

まずは、畠山氏の家督争いが起こる
畠山持国は、弟の持豊に家督を譲るつもりだったんだけど
気が変わって、息子の義就(よしひろ)に譲った
将軍の足利義政も、はい分かりました。良いですよ

持豊自身は、しゃあないなあ、と諦めたんだけど、持豊の取り巻きたちが納得しない
持豊の息子、弥三郎を立てて、争いを仕掛ける

畠山持国の長年のライバルだった細川勝元に応援を依頼
細川勝元は、畠山持国の勢力を削ぐ良いチャンスとばかり、快諾
さらに、次なる実力者、山名宗全(持豊)も弥三郎側に付く
面白いですね。山名宗全は最初、細川勝元と同じ側
そうなると圧勝。
義就は京都を脱出、お父さんの畠山持国も引退表明

はい、一件落着

のようですが、将軍義政としてはモヤモヤ
義就でOKって言ったのに。
政長の家督相続は認めるも、弥三郎派の人物を処分

何それ
頭に来たのは細川勝元。
管領をやめると言い出した

ごめんごめん。そう言わずに
なんとか慰留

気持ちがおさまらない将軍義政は、山名宗全が悪い、と言い出した。
討伐命令が出るも、細川勝元のとりなしで撤回
山名宗全は、やってらんない、と京都を離れ、国に帰っちゃった

山名宗全が京都からいなくなると、
義政、ビックリするようなことをします

畠山義就に声をかけ
戻っておいで

弥三郎は追い出され、落ちのびたまま亡くなりますが
弥三郎派は、その弟の弥二郎を擁立。後の政長です

またまたビックリ
将軍義政は、畠山義就がちょっと気に入らない行動を取ると
今度は、畠山政長を家督と認めると発表

コロッコロ
意味分からん

義政には、弟がいるが出家していた
義政が歳を取ってきて、男の子がみんな早くして亡くなったので
弟に還俗(げんぞく)させ、跡継ぎにと考えた
義視(よしみ)です
ところが次に生まれた男の子が元気に育っていった
後の義尚(よしひさ)です

この時期、3つの勢力があった
ひとつは伊勢貞親を中心とする将軍義政の側近
二つ目は山名宗全をリーダーとする集団
三つ目は細川勝元をリーダーとする集団

将軍義政は斯波(しば)氏の家督争いにも介入し、家督をすげ変えた

これに怒ったのが山名宗全
気まぐれだけで、火をつけ回るのは、将軍としてふさわしくない
義視の方が良いんじゃないか

山名宗全が戦の準備をするのを知って、呼応したのが、畠山義就

先手を打ったのは、将軍側近グループの伊勢貞親
義視が謀反を起こそうとしてますよ、と義政に告げ口

義政は義視討伐命令を出す

義視は元々自分の身が危ないと思っていたので
山名宗全と細川勝元に助けを求めます

山名宗全と細川勝元の二大勢力が味方につけば圧勝
義視を将軍に据える暫定政権が出来上がるはずでした

ところが、前言撤回!勘違い、と義政が言い出した
うそ言った伊勢貞親は処分するよ

山名宗全としては、義視を将軍にする気まんまんなので、そんな話には乗らなかったが
細川勝元が、義政擁護をし出した

伊勢貞親がいなくなるなら、3すくみの状況が崩れる
細川勝元としては、悪い話ではない

勝元さん話が違うよ

かくして、3大勢力状況が、2大勢力となります
山名宗全は、元々親戚であり、20年来の付き合いだった細川勝元との決別を決意します

長い長い応仁の乱の始まりです

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