[歳時記]11/14 色んな都道府県の誕生日

歳時記シリーズ。いつもは「おもしろ歳時記」の本から引用しているのですが
ラジオを聞いていると
11/14は埼玉県が誕生日した日、
今年は丁度150歳に当たります。
従っていろんな催し物が・・・

えっ

良く聞いていると廃藩置県が1871年11月14日で、そこから150年目

確かに!
今、歴史検定のお勉強をしていますが
そうです。1871年です。やったぜ

こんな大物を逃してなるものか

と、ネットで調べると
廃藩置県は1871年7月14日
ありゃりゃ?

その時点で、3府302県もあります。
こりゃ多すぎる。覚えられない。
って事で、年内に3府72県まで減らします。

それが11月14日
埼玉県の誕生日

ということは、埼玉県に限らず、かなりの県はここが誕生日のはず
丁度150年ってかなりレアなので、あちこちで盛り上がっているのでは
と、ネットで検索

おかしい
盛り上がっているのは埼玉県だけ

そもそも埼玉県は11月14日は誕生日だと、県民の日にしているから
その関係もあるのでしょう。

全国の皆さん、みなさんのところはいかがでしょう

県庁所在地
廃藩置県と言えば、前から誰かに聞いて、へえと思ったんだけど
良い機会なので調べてみました。

明治維新の時、新政府に味方した官軍の藩は
廃藩置県の時、県の名前と県庁所在地の名前を一緒にすることを許されたけど
反発した賊軍の藩は別にさせられたという話

【官軍】
薩摩藩:鹿児島県/鹿児島市
長州藩:山口県/山口市
土佐藩:高知県/高知市
肥前佐賀藩:佐賀県/佐賀市
備前岡山藩:岡山県/岡山市
芸州広島藩:広島県/広島市

【賊軍】
水戸藩:茨城県/水戸市
桑名藩:三重県/津市
仙台藩:宮城県/仙台市
松山藩:愛媛県/松山市
高松藩:香川県/高松市
盛岡藩:岩手県/盛岡市

それっぽいでしょ

若い時にその話を聞いて信じていたんだけど
ある時、ほんまかなと思った
福島県に住んでいた時です。

福島県、すなわち会津藩こそ、賊軍の代表
なのに福島県の県庁所在地は福島市です。
郡山じゃない。

調べました。

結論

関係ない

まあ、そうでしょうね
そもそも、藩と県はくくり方が違うし

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[歳時記]11/13 新種の鳥発見、ヤンバルクイナと命名

11/13
1981(昭和5)年の夏、沖縄で新種の鳥が発見された。
この鳥は同年11月13日に、学名ラルス・オキナワエ、
和名ヤンバルクイナ (山原秧鶏)と命名された。

日本での新種の鳥の発見は、今世紀にはいってはじめてのことだった。

沖縄本島北部の山岳地帯では、林道をサッと横切る黒い鳥が以前から何度か目撃されていた。
しかし、なかなかその正体がつかめなかった。
ところがあるとき、交通事故で死んだメスの鳥が見つかったことをきっかけに、
ヤンバルクイナの存在が明らかになった

ツル目クイナ科に属し、1919年のミヤコショウビン以来、
62年ぶりの鳥類の新種発見でした。
全長は30cm、翼長15cmほどの小さな鳥で、くちばしと足が鮮やかな紅色が特徴です。
鳥でありながらほとんど飛べず、
昆虫やカタツムリなどの小動物などを主食にする雑食性です。
ほとんど飛べないことから、天敵に襲われやすく
数が減少しているため絶滅危惧種であり、特別天然記念物にも指定されています。

羽根を広げるのは、木から降りる時くらいです。

ヤンバルは「山原」という沖縄北部の森の名前
ヤンバルクイナは世界中探しても、やんばるの森にしかいません。

クイナというのは鳥の種類
クイナ科の鳥は、大きくなりすぎて飛べなくなったものが多く
絶滅しちゃったものも多くあります。

ヤンバルのクイナがそれでもなんとかやってこれたのは
走るのが早いからです。

鳥なんだから飛べば良いのになあと思いますが
それはそれで個性な訳です。

やんばるの森にはあまり天敵がいなかった。
ハブくらい
早く走れば何とかなった。

じゃあなぜ絶滅の危機かというと
ハブを退治するために、マングースを放ったから
マングースは強いハブも食べるけど
弱いヤンバルクイナの方を捕まえて食べる方が楽だと気づいちゃった
結局、ハブはほとんど減らず、ヤンバルクイナは減っちゃった
本来、天敵がほとんどいなくてのほほんと暮らしていたのにね。

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[ことば日本史]4 さんすけ。一助、二助、三助、風呂を沸かしてちょうだい

さんすけ

銭湯で湯をわかしたり、入浴客の身体を洗う人を三助と呼ぶ。

この仕事が生まれたのは江戸時代のことだが、
呼び名自体は、光明皇后の伝説に由来しているとも言われる。

光明皇后は、藤原不比等の三女で、首皇子(聖武天皇)の妃となり、
天平元(729)年、それまでの慣例を破って臣下の出身でありながら皇后となった。
聖武天皇は仏教を深く信仰し、
東大寺の大仏造営、国分寺の建立などの事業を行ったが、
それらは光明皇后の勧めによって行われたともいわれる

皇后の信仰心は深く、病人に薬を施す施薬院や
孤児を収容する悲田院を設けるなど、社会救済事業にも熱心にとりくんだ。

ある時、こんな心願を立てた

千人の貧者の身体を洗って垢を落としますわ

そのとき下男の一助、二助、三助という兄弟が風呂焚きをしたという。

銭湯の三助とは、この故事にちなんで名づけられたもの

この伝説自体、江戸時代に作られたのではと思われる怪しさ満点の伝説なのですが

江戸時代には、下男など奉公人の通称を三助といい、
とくに台所で働く下女が「お三」と呼ばれたのと対にして、
飯炊き男が三助と呼ばれたというから、それと合体したのでしょう。

このお三や三助の語源をみると
台所仕事が「おさんどん」と呼ばれることと関連がありそうです。
そもそも、食事が三食になったのは江戸時代後半ですので
三度と関係するとすると、江戸時代後半に作られた言葉でしょう

もうひとつの説として、竈(かまど)を漢語では「さん」と呼ぶので
そちらから来ているとするともう少し前

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[首相]29 鈴木貫太郎。永遠の平和、永遠の平和

鈴木貫太郎

海軍出身 1945年4月~8月

太平洋戦争を終わらせる為の内閣です。

海軍で
日清、日露戦争で大活躍。
鬼の貫太郎、鬼貫と呼ばれる。

大正3(1914)年、海軍次官に就任
海軍の人事に大なたを振るう

62歳で、自分としても良く頑張った一生、悔いなし、と引退

ところが、牧野伸顕内大臣がそうはさせじと、引き抜き
侍従長(じじゅうちょう)に抜擢される
天皇にお仕えする仕事です

天皇が一汁二菜しか口にしていないと分かるや
それ以上のものを口にしてはならんと、三汁目は断る

天皇の信頼をどんどん得ていき
重要な片腕となる

天皇の意思に忠実でありたい。
その気持ちが強くて、戦争へひた走ろうとする面々とことごとくぶつかる
そんな人たちからは天皇を操って悪政を行おうとする「君側の奸」だと言われる

1932年2月26日のあの日
青年将校たちが鈴木邸の垣根を乗り越えた

銃を構えて、迫ってくる兵士たちに
「理由を聞かせてもらいたい」

指揮官は「時間がありません」
やれっ

ババババーン
4発命中し、おびただしい出血をして倒れた。

奇跡

一命をとりとめる

復帰した鈴木は侍従長を退任
兼務していた枢密顧問官選任となる

太平洋戦争
太平洋戦争が勃発し
最初だけは良かったものの、どんどん悪い方向に行く

首相は東条英機がやめ
あとを受けた小磯国昭も何も出来ずに辞任。

そうしている間に、戦況はさらに悪化
もう、「敗戦」以外にあり得ない状態

私ですか

この時、鈴木は77歳

天皇の意思が強く働いた

最後に一番重要な「仕事」は
一番信頼できる人にやってもらいたい。

カモフラージュ
課せられた仕事が何であるか分かっている

日本にとっても、おそらく自分にとっても最後の仕事

あの悪夢がよみがえるが
考え方を変えれば、あの時死んだ身ではないか

その時までは邪魔をされずにこぎつけなければならん
表向きは戦争継続を表明してカモフラージュ

沖縄が制圧され、本土への空襲もさらに激しさを増す。

1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ、イギリス、中国の名において
日本に対して発された全13か条から成る宣言

ポツダム宣言です。

鈴木としては即時受諾だったが
どうにも合意が得られない

「黙殺する」との声明を出さざるを得なかった

8月6日、広島に原爆投下
8月8日、ソ連が日本に宣戦布告

一刻の猶予もない

8月9日夜、鈴木は急遽皇居地下の防空壕にて
御前会議を召集

会議で阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、
連合軍による占領を小範囲、短期間にするなどの条件つきの受諾を主張した。

一方、それでは連合国側が受け入れないと危惧した東郷茂徳外務大臣、
米内光政海軍大臣、平沼騏一郎枢密院議長は、
天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件とする受諾を訴えた。

鈴木絵理はみずからの考えを述べない。

平行線

翌10日午前2時を過ぎた。

鈴木が立ち上がり、玉座近くに進んで奏上した。

「議をつくすこと数時間に及びましたが、
事態は一刻の猶予もない状況です。
このうえは陛下の思し召しをおうかがいし、
本会議の決定といたいしたいと思います」

3対3なのだから、鈴木が外務大臣側に賛成すれば多数決は成立する
ただ、鈴木にすれば、最も重要な結論を決めるのは多数決ではないと思ったろう

下打合せはなかっただろうが
信頼しあっている二人だから分かっていた。

「私は外務大臣の意見に同意である」

終戦
天皇による玉音放送が流される8月15日の朝、
鈴木の私邸は終戦に反対する国民神風隊の襲撃を受けたが、
鈴木と家族は間一髪で逃れることができた。

大役を終えた鈴木内閣は、その日、総辞職

警察の指示で鈴木と家族は転居を繰り返し
3か月後にようやく故郷の関宿町に落ち着くことができた。

その後、鈴木は請われて枢密院議長に一時復帰もするが、
退任後は宿で畑仕事を楽しみながら余生を過ごした。

3年後の1948年(昭和23) 4月17日
「永遠の平和、永遠の平和….」
うわごとのように2度唱えたのち、世を去った。

80歳だった。

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