[足利将軍]5 義量。大酒飲み?

足利将軍シリーズ

義量(よしかず)

義量はとても印象の薄い将軍です

義持の時に畿内においては比較的安定政権となる
義持は非常に信心深く、頻繁に寺社に通っている
出家を望むのは当然の流れで、父の義満の例にならって、38歳で出家
息子の義量に将軍職を譲る
この時、義量は17歳
義持は義量を溺愛していた

将軍職を譲って出家しても実権を渡さないのも父義満と同じ
義持がそうだったように、義量もじっと待っていれば、
その内父が亡くなって自由にやれる時がやってくるはず

ところが、義量は幼い頃に疱瘡を患って以来、極めて病弱
結果的に、たった2年の19歳にして亡くなってしまう
これでは、何にもやりようがない
義量がこれこれを行ったという文書がほぼ皆無に近い
花押、即ち何かを決裁したときのサインすらひとつも残っていない

唯一残っているエピソードが「花営三代記」に書かれた大酒飲み、というもの
義持が、義量に酒を飲むことを禁じ
家臣たちに、義量の部屋に酒を持ち込むことも禁止した
家臣たちに「持ち込みません」との起請文まで提出させている

当時はまだ将軍になっていない15歳
弱冠15歳にしてもうアルコール依存症だった訳?

ところがこれがかなり怪しい
このエピソード、「花営三代記」以外には全く出てこない

そもそも、信心深い義持が特に傾注したのが禅宗
禅宗は入口の門の横に「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と石に彫った碑文が置かれ
酒の持ち込みが禁じられている
ところが、それは有名無実化され、誰も守っていない
真面目な義持はそれが気に入らない

「徳政」という考え方があり
世の中に災害や飢饉が生じたとき
為政者は善政を行うことでそれをおさえる事ができると思われていた

当時、災いが立て続けに起こった
義持にとって徳政は禁酒令
三度にもわたって厳しい禁酒令を発令

ましてや溺愛する息子は、元服後も独立せず
自分と同居している
病気になったといっては祈祷、を繰り返す
当時、病気の治療法はほぼ祈祷のみ
そんな息子の部屋に、諸悪の根源と考える酒を持ち込んでいいはずがない

後継
義量が亡くなったあと、将軍が置かれなかった
元々、何でも義持自身がやってきたから、実務上問題はない

とはいえ、将軍空位という歴史上類を見ない事態が3年も続くことになる

義量以外には跡継ぎとなる男の子がいなかった

となると、弟に譲らざるを得ないが
義持が信じる八幡様からお告げがあった

もうすぐ男の子が授かる

そのお告げを信じて後継を決めずに引っ張る

とうとう、本人が病に倒れた

家臣たちは大慌て
そもそも、義持が将軍になったときも、義嗣という後継者候補がいたまま義満が急死して
大混乱になった記憶がある
何としても後継者を指名してもらわねば

なんとこれまた歴史上類のない形で次期将軍が決まるのだが
それは、シリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]38-2 池田勇人。月給を2倍にしましょう

首相シリーズ
[首相]38 池田勇人。貧乏人は麦を食え
の続きです

池田勇人

高姿勢と批判される一方、
演説では「貧乏人は麦を食えと言って、漫画に書かれた池田でございます。漫画よりも色男ではないでしょうか」と語るなど
茶目っ気もあって人気は上がっていく

大蔵官僚の下村治をはじめ、経済学者なと多くのブレーンが池田のもとに集まった。
1957年には、自らの政策集団、派閥の「宏池会」を結成する。

「お仕事中のみなさん、私の話をちょっと聞いてください。
みなさんの月給が2倍になるという話をします」

この選挙演説は強烈なインパクトをもって受け入れられ
名古屋のテレビ塔下の演説ではなんと1万人もの聴衆が集まった
池田さん頑張れ!といった声援も飛ぶ

自民党総裁選に当選。
1960年にいよいよ首相となる

何をする?
もちろん所得倍増論

専門家の間では、選挙目当ての大風呂敷、できっこない、と冷ややか
ただ、本人は自信満々
当初3年間の経済成長率の目標を9%に定める
これを続けられれば、10年後に所得は倍増する

眉につばをつけられるなか
初年度は10%を超える実績を上げ
なんと10年たたずして、所得倍増を成し遂げた

東洋の奇跡、世界の奇跡とまで言われるようになった
それまで、IMF(国際通貨基金)では経済に不安のある14条国であったものが
1964年には先進国と同等の8条国への移行が承認される

池田の自信の源は、なんといっても1964年に東京オリンピックを控えていたこと

新幹線も開通する

池田内閣の中心人物は、外務大臣の大平正芳と、大蔵大臣の田中角栄
逆に最も批判的だったのが福田赳夫

同じ高校で親友だったはずの佐藤栄作は距離を取り始める
急激な成長は歪みも出てくるようになったことによる

自民党総裁戦が行われる
佐藤栄作が出馬してしまうと、二人の溝がさらに深まってしまう
吉田学校での盟友として、常に二人三脚でやっきてきた仲
佐藤栄作の右腕だった田中角栄は奔走するが、佐藤の意思は変わらなかった

結果、池田が一位で佐藤が二位

以降も佐藤は池田批判を強めていく

東京オリンピックの開幕式での池田のスピーチ
「IMFのみなさん、この日本の爆発的エネルギーを見てください」

その2日後、かねてから喉に不調を感じていた池田は入院する
検査の結果、癌が発覚
閉会式の翌日には辞意を表明した

党内での混乱を避けるため
党役員たちは、公選によらず話し合いでの次期総裁決定を模索する

副総裁の川島正次郎と幹事長の三木武夫、そして官房長官の鈴木善幸

池田も納得
党内での意向を打診して、意見具申してほしい。それを受けて私が指名しよう

候補者として考えられるのは3名
佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎

佐藤栄作が池田と距離が遠くなって行ったのに反し、急激に距離を縮め
特に最近うまが合うようになっていたのがかつての宿敵、河野一郎だった

党内の意見をまとめるため、田中角栄が懸命に動いた
吉田茂のもとにも通う

池田、佐藤をなんとか元通り握手させたい

川島、三木が池田の元を訪ねる
党内がまとまりました。後継者は佐藤君を妥当と思います

用意されていた書類「首班候補者として  君を推薦する」という空欄に
佐藤栄作 と書き入れ、署名した

良かった。佐藤君で本当に良かった

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[ことば日本史] 一揆。頭を整理し直す

ことば日本史、南北朝時代から

一揆(いっき)
この言葉、歴史の勉強をしているとかなり頻繁に出てくる
その度に、ええっと、と頭の中を整理し直さないとならない

百姓一揆のイメージが強すぎて
鎌や鍬を持って暴力的な行動を起こすものという固定観念にとらわれてしまう

一揆はもともとそういった動詞ではなく名詞
特別強い結束を誓い合ったグループ自体を指す

だから、「家康が一向一揆と戦う」というような表現があった場合
まず一向衆側が暴力的な経緯を起こしたから家康が制圧したという
時間的経緯とは限らない
最初に事を起こしたのは家康側かも知れない

一揆は、もとは中国の言葉で、「揆(みち)をひとつにする」という意味だった。
日本では、平安時代の初めに「一致」「一致する」という意味で一般化した。
それが鎌倉後期の十四世紀以降、
契約内容を諸神に誓う一揆契状に署判することで連帯する
「一味同心」というあり方と結びつく

日常性をこえた問題、通常の手段では解決できない問題を解決するために結成される、
非日常的な集団のことをさす言葉となった。

南北朝時代に、国人(土着武士)が地域ごとに結合して団結し、
これを「国人一揆」と呼ぶようになった。

畿内やその周辺の農村では、名主を中心とする集団が成長し、
不法な代官の罷免や年貢減免を領主に要求することも行われるようになって、
その発展したものが土一揆と呼ばれるようになる。

一揆を結んだ人々には、神の意志と一体化しているという意識があり、
その要求や行動は、権力や日常の法や規範をこえる正当性をもっていると考えられていた。
だから日常の方法では解決できない困難に立ち向かうときに、一揆を結成する。

中世には、支配者にもこのような一揆の観念は共有されていたので、
階層を問わず目的に応じたさまざまな一揆が結ばれ、力を発揮していた。

これは傘連判といって丸く署名するもの

だが、織田信長が一向一揆と徹底的に戦ったように、
戦国時代には、その力は支配者から否定されるようになる。

江戸時代になると、一揆はいっさい禁止され、
公文書のうえでは、一揆という言葉は「徒党」や「騒動」という語におきかえられるようになってしまった。

ただ、一揆の観念は生きており、
享保の改革前後から、百姓一揆が頻発するようになった。
こういう経緯なので、今日では、一揆といって思い浮かべるのは、もっぱらこの江戸時代の百姓一揆のイメージになってしまう

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次女がお引っ越し

(12/9[土]~12/10[日])の事です

ひとり暮らしをしていた次女が、一旦わが家に戻ってきます
さらに年明けには、北海道にワーケーションで行くそうです。
家具付きの住宅を数ヵ月安く貸してくれ、リモートで仕事をする。
長女も大阪にいながらリモートで仕事。良い時代になったものです
一時的とはいえ、娘が帰ってきてくれるのはやっぱり嬉しい

ちなみに、以前お話ししていた長女の里帰り分娩ですが
諸事情により里帰りでなくなってしまいました
年明け早々に大阪で出産ということになります

引っ越し
ひとり暮らしの時の家具とかは、うちに全然入りません
一番の課題はどう処分するかということ
色々いっぱい調べ、いろんな経緯を経て、
二つの業者に家具や電化製品を引き取ってもらうことになりました

うちには、自転車とチェストと椅子ともろもろの荷物
週末のたびにちょこちょこ荷づくりを手伝いに行き
少しずつは、段ボールも運んでおりました

土曜日には、大がかりに荷づくりと掃除
疲れきって全身がだるい
いよいよ今日、日曜日に軽トラックをレンタルで借りて
お引っ越しです
もうひと頑張り

軽トラックって運転するの初めて。
何にせよ、初めての事ってワクワクドキドキするよね
って言ったら、次女が
そんなことないよ。以前、ニトリで家具を買ったとき、ニトリで軽トラ借りて運んだよ

ウソー。全然覚えてない。じゃあ、初めてのワクワクじゃない訳?
どうにかならんの、それ

分かった。ニトリはなかったことにしましょう

ってことで、初めてのワクワク軽トラだっ

10:30から6時間借りて、保険の安心パックもつけて5000円ほど

まずは、昨日までに荷造りしたものと大物を積みましょう
荷積みは素人なので良く分かっていません
椅子の積み方が良く分からないため、横たえて乗せると
思っていたよりかなりスペース取っちゃった
となると、自転車も横たえて、と思っていたのがスペース足りなくなっちゃった
仕方ない。自転車は立てて乗せよう
おおっプロっぽい

問題はロープのかけ方
荷崩れしちゃうと大惨事になる
本当は全部積めるんだろうけど
安全を考えて、2回に分けて運ぶことにしよう

どうかな、こんな感じ
最後の止めるところがずいぶん苦労した

2回に分けるとすると、まだ残っている荷造りをする時間が足りなくなる
次女は荷造り担当で残ってもらい、荷物運びは私ひとりで担当

ゴー

途中、何度も信号待ちの度に後ろをチラチラ見て荷崩れしていないか確認
若干ガタガタしたところではヒヤヒヤMax

オートマだし、運転自体は思っていたよりすぐに慣れた
長年乗り慣れた車みたいな感覚になる

到着。荷崩れなくセーフ
よっしゃあ
ひとりでの荷運びは大変だったが何とかこなす
もうお昼
食事の時間は取れそうにないので、家でお茶漬けをかっこみ、バナナをほおばる
そっちはそっちでお昼食べておいて、とラインし
さあ戻りましょう

1往復で2時間かかる
6時間レンタルって余裕と思っていたけど
2回往復となると、ギリギリだ

さあ2回目の荷積み
1回目に比べると荷崩れの心配はなし
荷造りはまだ残っている
大物は積み切ったので、軽トラを返したあと、私の乗用車で残りを運ぶとしましょう
悪いけど、続いて荷造り頑張ってね、と
また私ひとりで荷運び

16:30までに返さねば
でも焦りは禁物、安全運転、安全運転

レンタカー屋に16:00に到着
何とかなったぁ

次女の待つ部屋に戻る
残りの荷造りを次女がやり
私は頑張って掃除

大物家具の業者による回収は後日なので、まだ荷物はありますが
何とかなったんであるまいか

残りの段ボールを乗用車に積み、一緒に帰宅
疲れの極地で、全身大変な事になっておりますが
お互い、良く頑張ったね

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