[江戸のヒロイン] 京都の吉野太夫、大阪の夕霧太夫

江戸のヒロインシリーズ
今回の、江戸の、は江戸時代の、の意味

前回、江戸の高尾太夫の話をしましたね
やっぱり、遊廓と言えば、京都に決まってます

吉野太夫
吉野太夫(よしのだゆう)の名は徳子(とくこ)

両親が死んじゃったので廓に入った

初めは「浮舟」と名乗っていたんだけど
桜見物の時に

ここにさえ さぞや吉野は 花ざかり

と詠んだので、いつのまにやら、吉野と呼ばれるようになった
素晴らしいですね

ささっと詠めちゃうんですね

その頃、中国まで名の知れた日本人は?
と問われると

あずまに林羅山、京都に徳子吉野

ええっ
林羅山と同格なのね

井原西鶴も、好色一代男で
前代未聞の遊女なり。いづれをひとつ、あしと申すべきところなし。情け第一深し

完璧です。

そんな吉野を身請けしたのは、お金持ちのお坊っちゃん、灰屋紹益(はいやじょうえき)
灰屋っていうのは、家業の紺染めに灰を使うことからきた屋号。
大富豪の先代、灰屋紹由(じょうゆう)に見込まれて養子に入ったのに、
風雅の世界、和歌、茶道、書などに凝りまくった
それぞれ、当時の第一人者に弟子入りし、本格派

挙げ句の果てに、関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って吉野太夫を身請けしたと知って
お父さん紹由はカンカン
勘当されちゃいました。

大金持ちに身請けされたはずの吉野太夫
それでも文句ひとつ言わず、二人で貧乏暮らし

ある時、急な雨で、紹由が雨宿りしたことが有った。

あらあら、お濡れになったんじゃありませんか
粗末な家の中から出てきた女性がとても親切にしてくれた。

感激した紹由、あとで調べてみたら
その人こそが吉野太夫だったと判明

ビックリした
息子があんなにも貧乏暮らしをしていたこと
吉野太夫の人柄はまさに、情け第一深しだった。

職業の貴賎でのみ考え、
息子の人を見る目を信じてやれなかった自分を悔いた。

すぐに戻ってきてくれ。

でも、悲しいですね
吉野太夫は36歳くらいで死んでしまいます。

都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして

紹益は、吉野太夫の遺骨の灰を杯の酒にパラパラっと浮かべ飲み干す。
毎日それを続け、ついには全て飲んじゃった

分かりました?
灰屋だからですね

真田丸の時の吉野太夫

夕霧太夫
京都に行ったら、大阪もね

好色一代男に、廓の女性を品定めする場面がある

素顔のままでも美しく、しとやかで、肉付きが豊かで、
眼差しはきりっとして、声も良く、
琴の名手で、三味線もうまい

おいおい、そんな女性いるわけない

ん?
一人だけ

おう
いようとも

お前も思い付いたか

じゃあ、せーの、で

「夕霧」

夕霧太夫の名は照、と言い、京都嵯峨の産まれ
京都の老舗遊女屋、扇屋四郎兵衛の抱妓(かかえこ)となった
扇屋が寛文12(1672)年に大阪の新町廓に移ることとなり
夕霧太夫も一緒に大阪へ下ることになった。

大阪の廓は京都に比べると全てにおいて劣ると言われていたので
京都でダントツトップの夕霧太夫が大阪へ、とは
大阪人は上へ下への大騒ぎ

今日来るんじゃないか

ここを通るって、何の根拠もないのに
淀川べりには多くの人が詰めかける

特に最も評判の良かったのは
分け隔てのない客への対応
心優しき遊女だった

残念ながら27歳という若さで病にかかり、帰らぬ人に

近松門左衛門は、死を悼み「夕霧名残正月」(ゆうぎりなごりのしょうがつ)を書き下ろす。
その後も色々続編を出し
三十五年忌に集大成して「夕霧阿波鳴門」(ゆうぎりあわのなると)

浄瑠璃の「吉田屋の段」を歌舞伎用に書き換えた「廓文章」(くるわぶんしょう)は
初代、坂田藤十郎の当たり役となります

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