川本幸民。日本で初めて作ったのは、ビールとマッチとカメラ

江戸の理系力シリーズ、長くやってまいりましたが、一旦最終回とします。

川本幸民
かわもとこうみん 化学者 

わが兵庫県、三田藩の藩医として生まれた幸民
早いうちから抜きん出た才能をあわらし
参勤交代に伴って江戸に入府します。

江戸では蘭学者・坪井信道の塾に入門し、緒方洪庵らとともに蘭学を学びます。

大きく花開くかと思いましたが、大事件。
1836(天保7)年、刃傷事件を起こしてしまいます。
事の詳細は分かりませんが、殺しちゃったか、巻き込まれたか

数年間の謹慎蟄居を余儀なくされます。

1841(天保12)年に謹慎が解けると、
その数年後にのちの薩摩藩主・島津斉彬と知り合います。
出たっ。科学大好き斉彬
1853(嘉永6)年に薩摩藩に転籍します。
さあ、そうなると薩長です。新政府側です。
あれもこれもやらせてもらえる斉彬で、色んな事できて
そのまま明治維新になだれ込みます。

超ラッキーではありますが
反面、先程の謹慎もあり、
生涯で三度も大火に会い、その都度家を焼け出されているので
順風満帆な人生とは言いがたいかも。

マッチ
嘉永元年、幸民がある裕福な商家に往診に出かけた

その主人が
西洋にマッチというものがあって、擦っただけで火がつくらしい

ほう、そりゃまた素晴らしい。

どうじゃ、先生なら作れるんじゃないか
もし作れたら、五十両差し上げますぞ

幸民の実験の日々が始まります。
当時のマッチは材料に発火点の低い黄燐を使っていたため、製作は爆発の危険と隣り合わせでした。

負けるもんか

いよいよ完成。

見ていただけますかな

商人の前でマッチで着火
ぼわっ

おおおっ

ということで五十両

あっ、あれか
あれは冗談じゃ

いいえ、払っていただきます。

なんとか逃れようとする商人でしたが
この話がどんどん広まっていき
引っ込みがつかなくなって、泣く泣く五十両を支払いました。

化学新書
化学新書という本を、1861年に出版
宇田川榕菴の舎密開宗と並び江戸時代末期の代表的な化学書です。

ビール
この『化学新書』に、ビールの醸造方法が書かれています。
それも、とても詳しく。

幸民がビールを作ったということが、明確にどこかに書いてある訳ではないので
100%ではないんだけど
基本的に実験しながら書いているので
まず、日本で初めてビールを作ったことは確実です。

たとえば「上泡醸法」と「下泡醸法」では、発酵温度や仕込時間、貯蔵期間などが異なる事が書いてある
上泡醸法は今、イギリスのエールなどで行われている製法と同じで
下泡醸法は、ドイツ風ビール。こっちは当時まだ確立したばかりなのになんで分かったんだろう。

1853年のペリー来航で、ペリーがおみやげで持ってきたビールを真似た、とも思われるけど
それだけで、「上泡醸法」と「下泡醸法」の違いなんてところまで行くだろうか
謎です。

カメラ
カメラもおそらく最初。
多才過ぎてクラックラ来ますね。

1830年代フランスで発明されたとされるカメラをためしに作り、
日本で最初に撮影に成功した。
このことは、遠西奇器述(えんせいききじゅつ)に書かれています。

初期のカメラは、色んな方式があり
それぞれ一長一短あった。

自分が最初に開発してから10年後
咸臨丸の使節団の中に滞米中に写した複製写真を持ち帰った者がいた。
おっ、これは違う方式、湿板写真だな、とすぐに分かり
その湿板写真式カメラも作っちゃった。

その湿板で幸民が取った写真が2枚残っている。
一枚は自分を撮ったものだけど
もう一枚は、これ

川本秀子さん。
奥さんです。

苦労かけたね、って事でしょう。
奥さん、嬉しかったろうなあ。

索引はこちら
[江戸の理系力]シリーズはこちら(少し下げてね)


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