[明治維新] 賤民廃止令で変わったこと

明治維新は、賤視されてきた身分集団にも、大きな影響を与えた。

明治4年に賤民廃止令が出た。

江戸時代
江戸時代の、賤民と言われる人達を見ていきましょう。

よく、えた非人という言い方をします。

えた、というのは、たおれた牛馬の皮革処理や行刑などを行います。
百姓とは別の村や集落を作り、農業や皮革生産に携わります。

非人というのは、乞食を生業とする人達
さらに、勧進(物乞い)をしながら芸能や呪術を行う夙、猿飼い、大黒舞、ささらなど、
地域により様々な小さな集団を形成している人々。
士農工商ってほんと?
にも書きましたが、庶民の福の神の信仰には重要な役割を果たしています。

「江戸東京の明治維新」の著者、横山百合子さんは
何らかの特権を持っている集団を「身分」と呼んでいますが
えた非人も、ある意味特権階級なのではないかという気がしてきました。

関西と関東では、状況が異なるので、江戸を中心とする関東に限定して話を進めていきます。
関西では、えたと非人は別々ですが
関東では、えたも非人も、弾左衛門(だんざえもん)の配下に入ります。
弾左衛門も、えた非人の身分です。

関八州と伊豆、駿河、甲斐、陸奥の一部までの地域。
弾左衛門配下の戸数は1800(寛政2)年頃には、7720戸ほどです。

江戸だけを見ると、車善七、松右衛門、善三郎、久兵衛の4人の非人頭が
弾左衛門の元で地域を分けあって、勧進の権利を持っていた。

中心となるのは、浅草寺の北東に位置する1万3500坪ほどの浅草新町
ここを拠点に関八州の人々を支配し、集団内の争いについては、
民事刑事を問わず、裁判権・刑罰権を持っていた。
屋敷内に白洲ゃ牢屋もあった。

新町は、弾左衛門配下の人達の、仕事の拠点でもあった。
皮革問屋や、雪駄問屋などが集中し
下総国三か村等で作られる灯心用のいぐさを独占的に集荷する灯心会所も設けられていた。
これは、弾左衛門に認められていた特権

課されていた役割も多彩で幕府内で色んな役割を担っていた。

幕末になると、弾左衛門配下の人材の動員が必要となり
呼応して、弾左衛門も身分の引き上げを求める。
1864(元治元)年、町奉行所の牢屋敷が火災で焼失
その時に、弾左衛門の屋敷内の牢屋に臨時で囚人を収容
その時の手当て等の対応がとても良かったと、
第二次長州戦争に約500人を動員
一部の人の身分の引き上げを許す。

どうも、今まで、えた非人という賤民は、
一方的に産まれながらにして、非差別民としてさげすまれたとばかり思っていたが
そればかりでもない気がする

弾左衛門自身は、努力を重ねて、その地位に出世していったし
交渉を重ねて、皮革をはじめとした、独占的な特権を少しずつ獲得していっている。

賤民廃止令
明治4年に賤民廃止令
総じて言えば、彼等にとってみれば喜ばしいこと。
それは恐らくまちがいないのだが
同時に皮革独占の権利も消滅した。

弾左衛門はそれを機に、弾内記、さらに直樹と名前を変えるのだが
支配下の人達に通達を出している

その中で、「もはや、この方、支配これまで」と述べている。
今後は、皆さん自分達で頑張ってくださいね、と

とはいえ、今日明日、どうすれば良いのか
生き抜いていくための新たな努力がここから始まる。

弾直樹自身はというと
今までの、皮革の技術を元に
文明開化の波に乗るべく
製靴業を始める

これからは、靴っちゅうものをはくらしい。
それは革でできているんだと。

欧米の技術導入を計り、
政府に積極的に交渉し
軍の靴を製造する、契約を締結

ようしこれからだ、って事だけど
特権で守られている訳ではない。

資金力のある三井が本格的に乗り出してくる
政府は、突然契約破棄。
三井組に主導権を取られてしまう。

その後の事は明確には伝わっていないのだが
どっこい生き抜いたと思いたい。

さあ、それ以外の人達は?
その努力と経緯を、シリーズの次回でお話することにしましょう

[明治維新]シリーズはこちら(少し下げてね)

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