[大岡越前] 防災と福祉政策

大岡越前シリーズとしては最終回になります。

色んな改革を推し進めてきた大岡越前
防災や社会保障も忘れていません。

防災
江戸時代は様々な災害がありました。

特に一番大問題だったのが火事

明暦3(1657)年に江戸中を焼き尽くす大火があり
その後に消防組織ができた。
幕府直轄の旗本達による、定火消(じょうびけし)と
大名が分担し合う大名火消

以降この組織で消防は担当していたんだけど
あくまでも対象は、武家屋敷

火事は武家屋敷だけを選んで燃える訳ではない。

町人が放っとかれているのはおかしいんじゃないの
と、大岡越前は町火消を創設

江戸を47地域に分けて、いろは47組に
当時の消防は、ポンプでプシューと水を出す技術が未だ無いため
水をかけての消火は気休め程度

類焼を防ぐために、風下の家を壊すという活動がほとんど

となると、鳶職をはじめとする建築関連の職人のいる町人の方が得意技

次第に町火消の方が力を持ち、大名屋敷も火消し、最終的には江戸城までも
町火消が担当するようになります。

社会保障
そのため、一旦火事が起きたあとの被害はずいぶん減ったんだけど
大火の頻度自体は減らなかった。

実は原因の一番多いのは放火
一旦火事が起きると、建築関連の人たちが儲かるんです。

火事と喧嘩は江戸の華っていうのは、若干そういう意味合いも含んでいます。

火事で家が焼けちゃったとか、消防活動で家を壊されちゃった人達は
明日から生活が出来なくなってしまう。

対象が多すぎるので、もともと生活に困っている人に限定
あらかじめ、リストアップされた人が火事にあったとき、実際に支給された。

さらに、その後、対象を拡大
親や妻子、あるいは自分が重病なため、その日を送れない人にも支給されることになった

さらに、翌年、小石川養生所を作る
貧しくても医者にかかれない人が入れる病院

正直、幕府自体も火の車
きっちり基準を決めることにした。
どういう条件のひとに何回まで、いくらか

この時、はじめて福祉がシステムとなったと言えるでしょう。

享保の大飢饉
享保17(1732)年、西日本一帯をイナゴの大群が襲った
ちょうど米の収穫時期で大打撃
江戸時代三大飢饉の享保の大飢饉

江戸も他人事とは言えず、
幕府は江戸で米を買い上げ、西日本に送る
大岡越前は、その担当となった

一気に江戸の米が枯渇する
せっかく物価が安定していたのに、米価が大暴騰

生活できない人が激増し、福祉は待ったなしになってしまった。

福祉の対象者をさらに拡大

それでも事態は急速に悪化した。
高間伝兵衛という商人が大量の米を買い占めているという噂が出た
窮民数千人が高間宅に押し寄せ
打ち壊しをしてしまった。

これには大岡越前も大ショックを受ける

公共投資
江戸城のお堀を浚うという仕事が今まで定期的に行われていたが
享保年間になってから全く行われていなかった。

騒動のすぐあとに発注
働き口の確保
今で言う公共投資

専門の請負業者に頼む
その業者も特需なので多くの人を雇う筈

でも、名主は、業者ではなく直接各町に割り当てて欲しいと要請

大岡越前は悩んだあげく、却下
業者としてもずっと何年も待たされていた訳ですし。

その代わり、掬い上げられた土を運ぶのは一般市民がやってよし、ということにした。
運べば、賃金が支払われる。

そんな努力もあって、江戸の経済も少しずつ落ち着いていく。

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

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