[天皇]34 舒明天皇

天皇シリーズ

舒明(じょめい)天皇
629~641年 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)

次期天皇と明確に位置付けられていた聖徳太子が、推古天皇より先に亡くなり
その5年後に蘇我馬子が亡くなる
そして、その2年後に推古天皇が亡くなる

という事は7年あった訳で
次は誰って推古天皇が指名しておけば、事はスムーズに運んだでしょうに。

推古天皇は、亡くなる前、病床に別々に二人の皇子を呼んだ
一人は、敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひとひとのおおえのおうじ)の子である田村皇子(たむらおうじ)。
もう一人は聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのみこ)

そこまですれば、どっちって指名するでしょうがどちらとも言わなかった。
残念!

当時、原則は次期天皇は有力者が集まって会議で決める。
もちろん、先帝が指名しておけば、結構すんなりの筈。

最高実力者は、蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷(えみし)
田村皇子を推します。

山背大兄王にしても、聖徳太子と蘇我馬子の娘の間に産まれた長男なので
こっちも蘇我氏関連なんですけどね

反対派の実力者は、境部摩理勢(さかいべのまりせ)
蝦夷の叔父さんです。

結局この頃は、蘇我氏かそれ以外かの戦いではなく
蘇我氏内での主導権争い

蝦夷は、境部摩理勢に兵を差し向け、殺してしまう。
これだけを見れば、蝦夷は馬子に似て、血の気が多い気がするが
実は、気が弱い
気の強い、父馬子と息子の入鹿に挟まれ、押され気味

一番決め手になったのは候補者たちのお母さん
田村王子のお母さんは王家の女性だったけど、山背大兄王は蘇我馬子の娘だというだけ
さらに田村皇子は既に結婚していて子供もいた。
その奥さんというのが、押坂彦人大兄皇子の子の娘
叔父さんと姪っ子の間柄
早い話が、奥さんも王家の女性
となると、次に天皇になるであろう息子も立派な血筋ということになります。

この奥さんというのが、次期天皇の皇極天皇で
この息子というのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)=天智天皇で
その弟が天武天皇

そうです。
この田村皇子が舒明天皇です。
大物揃いですね

もちろん、舒明天皇が勝ち抜けたのでそうなった訳ですが。

遣唐使
舒明天皇と言えば、遣唐使。
その後、最澄・空海がメンバーとなるあの遣唐使の第一回目

朝鮮半島の、新羅、高麗、百済とも仲良く付き合い
盛んに交流を行った。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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