売茶翁は、お茶売り坊主

名僧シリーズ、江戸時代です。

売茶翁(まいさおう)
1675~1763年 黄檗宗

僧としての名前は、月海元昭。
売茶翁(まいさおう)は自分でつけたペンネームみたいなもの

彼の功績は、晩年の京で過ごした日々にある

その名の通り、お茶を売った。

元々は武士。
お父さんが、天秀尼のところで話題に出した加藤明成に仕えていた
ということは、改易された訳で、浪人になっちゃった。
息子の売茶翁は、仕方なく出家

中国から入ってきた黄檗宗(おうばくしゅう)の龍津寺(りゅうしんじ)の化霖道龍(けりんどうりゅう)の弟子になります。
22歳で諸国行脚の旅に出て、33歳で龍津寺に戻ってくる。

ちょっと変わっていて、僧とも俗人ともつかない格好をしていた。
僧の大原則は、生産活動なり、商売なりをしないこと。
世俗を捨てることに意味があるので自ら「食っていくため」に仕事をすることをせず
施しをしてもらいながら生活をする

売茶翁はそういった大前提に違和感を持った。
法衣を着て、殊勝げに施しをもらうことが恥ずかしかったと書いている

その後も放浪の旅に出るが
60歳で戻ってきて京に住むと、元々持っていた違和感が自分の中で大きくなったんでしょう

茶を売るという商売を始めた。
「仕事」になっちゃうわけですが、その生き方の方がしっくり来たんでしょうね。

そんな彼の行動を功績と表現したのは、
お茶の歴史を変えるほどの事だったから。
我々が今普通に飲んでいるお茶は、売茶翁のお陰だと言っても良い

それでは、お茶の歴史を辿っていきましょう。

お茶の歴史
日本のお茶の歴史は平安時代に始まります。
留学僧達が持ち帰りました。

この時は、嗜好品としての飲み物ではなく、薬
さらに、全て輸入品だったために、滅多に手に入らない
庶民はおろか、上流階級にも広がったとは言えない

日本でお茶が栽培され始めたのは、鎌倉時代
臨済宗の開祖、栄西から
中国からお茶の種を持ち帰って、日本で栽培を始めた。
次第に、僧や上流階級の間に広まっていく

戦国時代の終わり
新たな展開を見せる
そう、あの人
千利休です。

わびさびの世界
芸術や教養としてのお茶。茶道です。

とはいえ、まだ庶民には無関係の話
上流階級だけです。

大きく変化したのが、17世紀後半
売茶翁の時代です。

まず、黄檗宗の僧、隠元が中国から、新しいジャンルのお茶を持ち帰ります。
煎茶です。

それまでのお茶は、抹茶
粉にしたお茶を溶くもの

煎茶、即ち、お茶の葉からエキスを抽出して飲むという方法が始まったのです。

ただ、まだ、我々が一般的に飲んでいる緑茶ではありません。
黒製という名の茶色がかったもので、味もそれほど美味しくない。

まもなく、永谷宗円という人が現れ、発明したのが、
青製と言われる今の緑茶のルーツ
うまいっ
庶民にも手に入りやすい美味しいお茶の登場。

これをどう広めるか
はい。やっと繋がりました。売茶翁の登場です。

売茶翁も最初は、黒製の方を売っていました。

ある日、永谷宗円に出会う。

おおっ、こんな良いものが
いっちょ大儲け、となりそうですが
金儲けがしたいわけじゃありません
誰かに何かをもらうには理由付けが欲しかったということ。

代金は、置いてある筒の中に「お布施」として入れてもらう。
金額は気持ち次第。
だから、貧乏暮らしは変わりません。
何せ商品が良いもので、評判が評判を呼び大人気
とっても忙しいのに、ずっと貧乏

しかも、せっかく流行っているお店をたたんで、引っ越ししたくなっちゃいます。
京都の近くではありますが、いくつも店を変えます。
結果としては、お茶を多くの人に広めるという役にはたったのかも

いずれも、景勝地だったので
みやげ物屋的な意味合いだったかも
あるいは、単に旅行気分だったのかも。

当時は異例の長寿、89歳まで生きて大往生

本人はとても楽しい大満足の人生だったのかも、って思います。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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