[天皇]51 平城天皇。勤勉なる君主だったけど

天皇シリーズ

平城(へいぜい)天皇
806~809年

桓武天皇の息子で皇太子
桓武天皇の死去を受けて即位します。

平城天皇は実に真面目
桓武天皇が派手好きで、遊興を繰り返したのに
ただ真面目に行政改革を断行

派手好きな皇族貴族とはそりが合わなかった。
その代表格が、伊予親王と藤原乙叡(たかとし)

伊予親王は謀反を企てていると密告され、捕まった。
川原寺に幽閉され、飲食を絶たれた
最後は服毒自殺

藤原乙叡も連座され
この事件で、藤原南家は一気に没落する

遊宴・遊猟だけでなく、造営や戦争を好まなかった。
仏教についても、きわめて冷淡であった

何か派手な臭いのすることは一切せず
ひたすら真面目に仕事をし、改革を進めていった。

そんな精勤がたたったのか、病気になってしまう。

闘病中も法令を出し続けるが
ついに、譲位することを決意する

弟の嵯峨天皇が即位です。
元の派手路線に逆戻り

平城太政天皇は、体を癒すべく、平安京内ではなく、別の場所での療養を希望した。

色々探した結果、前の奈良時代の都、平城京に移った。

それまでは、天皇が譲位して太政天皇となっても、同じ宮内に住むので仕えるものは、両者兼任で仕えていた。
今度は場所が離れすぎているので二手に分かれることになる

二所朝廷と言われていた。

そうこうしているうちに、今度は嵯峨天皇が病気になった。

反比例するように、平城太政天皇は少しずつ回復していく。

すると、政治への意欲がふつふつと甦る

薬子の変
平城太政天皇の側近に
藤原仲成・薬子(くすこ)の兄妹

薬子は平城が皇太子の時から寵愛を受けていた。

真面目な人ほど、ひとたび女性に目が眩むとおかしな方向に行くと言います。

平城太政天皇は突然に宣言。

今後、都は、平城京に遷都します。

薬子が本当に平城太政天皇を焚き付けたのかは分かりませんが
薬子の変って名前がついちゃいました。

これが、称徳天皇が淳仁天皇に対して行ったように、
天皇をやめさせるというほど強いものだったかは分かりません。

ただ、前例もあるわけですから
嵯峨天皇にとっては、はいそうですか、って言う訳には行かない

嵯峨天皇の動きは早かった。

伊勢・近江・美濃の国府と故関を固めて戦乱に備える一方、
宮中を厳戒状態におき、平安宮に来ていた藤原仲成を拘禁
その後射殺します。

平城太政天皇は、敗色濃厚になったため、出家。
薬子は服毒自殺します。

変化
この薬子の変は時代を大きく変える要因になります。

まずは、藤原氏内での力関係

先程、藤原南家が没落した事を言いましたが
薬子の変では、藤原式家が没落
残った北家がこのあとの摂関政治へと大きく力を付けることになります。

次に太政天皇の位置付け
これまでは、譲位したあとの太政天皇が力を残しており
大きく政治に関与
二人の天皇的になる場合もありました。

この薬子の変で、太政天皇が失敗したことにより
太政天皇は長くに渡り、口出し出来なくなります。
次に口出しするようになるのは、ずっとあとの院制の時代からです。

次に女性の政治への参画です
それまでは、女帝自体も多かったですが
皇后がかなり力を持っており
何かと政治に関与していました。

この後、そもそも、長らく皇后自体置かれなくなります。

即ち、天皇、太政天皇、皇后が分担しながら政治を行っていたのが
天皇ひとりだけになり
それでは負担が大きすぎるので、
摂政関白といった
替わりに政治を行う仕組みが作られていく訳です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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