[明治]3山県有朋。不完全燃焼では終らない

明治シリーズ兼歴代首相シリーズ
第三代首相です。

山県有朋(やまがたありとも)
長州藩出身です。

武士にも色々
上級武士もいるけれど、例えば福澤諭吉は20石取りの下級武士
さらにその下に足軽がいて、普通、足軽は武士とは呼ばない。
ただもうひとつ下がいる。
中間(ちゅうげん)と言って、武家屋敷の使用人。
大きな範疇で言うと、これも武士。

山県有朋はこの中間の家に生まれた。
藩校の明倫館では学ばせてもらえなかった。
学問では無理だと悟り、武芸で身を立てようとする
槍の修行に頑張っていると、志士たちと会うことが出来るようになった。
その縁で吉田松陰の
門下に入れた。
さらにその縁で、奇兵隊に
奇兵隊は身分を問わず誰でも入れる事がウリですので。

ただ、出遅れ感は否めず
幕末の重要な局面では「それなり」の活躍しか出来なかった。

明治になると、その不完全燃焼を解消すべく積極的に動く。
欧米視察
そこで、調査テーマにしたのは徴兵制だった。

奇兵隊の経験、武士のような武士じゃないような自らの境遇

武士を中心に軍隊を組織しようとする主だったメンバーに対し、
広く一般から徴兵する事を主張。

廃刀令も山県の建議
山県ならでは、と言えるだろう

ただ、元武士たちの大きな反感を買うようになる。

徴兵制による軍隊の実効性が証明できたのは
同志であった前原一誠の反乱弾圧であり
最も世話になった西郷隆盛相手の西南戦争になろうとは、思ってもいなかった

その功により、陸軍のトップへと上り詰めていく。

それだけでは終わらなかった
今度は、西南戦争の功を巡って、陸軍内で反乱が起きた。
竹橋事件。
せっかくの陸軍トップの座も責任を取って退かざるを得なくなった。

でも、逆にこれは良かったかもしれない
「陸軍の山県」から政治全般へ首尾範囲を広げていくことになる

伊藤博文が憲法調査のため欧米へ旅立つと
参事院議長を任せられる。

そしていよいよ、内務卿へ
内務省は、大久保利通の作った、権限が極めて広範囲なナンバーワン省

大久保利通のあとは伊藤博文が引き継ぎ
伊藤博文が首相になると、山県に順番が回ってきた。

議会の開設の期限が迫ってきている。

全力をあげて真剣に取り組まねば
そう考え、実施したのは、またもや欧州の視察だった。
今度は政治全般がテーマ

10ヵ月もの長きに渡って、十分に研究し
欧州の議会を見学すると
整然と議論している様に驚かされた。

日本はまだ時期尚早だ
日本は民党がまだ成熟しているとは言い難い

いわゆる超然主義。民党に左右されず、内閣はより高い視点で政治を行うべし。
この思いがより強くなった。

戻って、地方制度の改革などに積極的に取り組んでいく。
同じ長州の伊藤博文との密月時代、伊藤の中央政府の改革とバッティングしないように
地方に焦点を当てる形だった。

黒田清隆が首相を辞任し
いよいよ、山県が首相となった。

最初の議会
民党とも粘り強く交渉し、妥協を計り
良く耐え抜いたと言えるだろう

その後、内閣総辞職

松方内閣を経て、第二次伊藤博文内閣
そこでは、法相をつとめ、司法行政にまで守備範囲を広げた。

日清戦争の開始
ここでは、軍へと戻り、連戦連勝

本人はこの辺りが絶頂期と考えているようだ。

伊藤博文との密月時代が終わりを向かえつつあった。
同じく、超然主義であったはずの伊藤が変質した
民党に近づくようになり、さらには自ら政党を作った。

両者とも、大きな方向性は一致している
政党が成熟した暁には、政党政治へ移行すべし
問題は現状認識の差。

民党の大隈重信と、板垣退助が内閣を樹立
初めての政党内閣です。

ところが4ヵ月で瓦解

再度山県有朋が内閣を組織する

税財政においては議会(政党)と提携し
それ以外については、内閣が必要な政策を打っていくという新しいスタイルに変わっていった。

庭園
ガラッと変わって庭園の話
山県有朋と言えばやっぱり庭園の話

山県は庭園界にも革命を残した。
欧州視察で見てきた西洋庭園
その中で日本庭園に融合出来るもの

例えば芝生

新しい庭園の考え方を名匠・小川治兵衛に伝授
京都別邸である無鄰庵(むりんあん)は名園

そして東京では椿山荘です。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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