[天皇]54 仁明天皇。藤原摂関政治への布石

嵯峨天皇と淳和天皇の間で、ジグザグ作戦の合意が出来ていました。
弟(淳和天皇)に譲る替わりに、その次は息子(嵯峨天皇)に譲ってね
さらにその次は、淳和天皇の息子に譲るから

仁明(にんみょう)天皇
833~850年

約束を守るべく、皇太子に淳和天皇の息子、恒貞(つねさだ)親王を立てた。

その後、承和7(840)年に淳和太政天皇が亡くなった。
さらに、承和9(842)年、今度は嵯峨太政天皇が亡くなった。

あれ?
約束の当事者二人とも亡くなったのね。
約束をもし守らないとしても、誰も分からないんじゃない?

仁明天皇にも息子がいる
人情として、本当は自分の息子に譲りたい。

そんな心の奥底を見抜き、自分の利害と一致させる者がいた。
藤原良房

承和(じょうわ)の変
仁明天皇の次を恒貞親王ではなく良房の妹と仁明天皇の間に生まれた道康(みちやす)親王にすれば
良房にとって都合が良い

嵯峨太政天皇が没した実にその2日後
伴健岑と橘逸勢の謀叛が発覚
二人は、恒貞親王を担いで、クーデターを起こそうとした、という
承和(じょうわ)の変です。

不思議ですね。
もうちょっと待っていれば、皇太子なんだから次期天皇

ここでクーデターを起こす必要があるとは思えない。

事件の処理は速やかで、健岑は隠岐、逸勢が伊豆に配流、
恒貞親王は皇太子の地位を廃された

結果として、良房の視点で見ると、色んな事を一気に解決できたことになる。
藤原氏のライバル、伴氏と橘氏を追い落とし
関連で、藤原氏内での一番のライバル式家を数多く失脚させた。
良房は北家です。
唯一、式家で左大臣という最高権力者、緒嗣(おつぐ)だけは残ったものの、おじいちゃん
時間の問題と思っていたらやっぱり翌年亡くなった。
これで、完全に北家一人勝ちになります。
かつては、北家、式家、京家、南家の四家が並び立っておりましたが
以降全て摂関家は北家ということになります。

そして、道康親王が皇太子となって、天皇との親戚関係が密になり
影響力が強大になったのです。

仁明天皇としては、ジグザグの約束が反故になり、自分の息子に譲れることになり一安心
お父さんとおじさんが政治もそこそこにお金もがっぽりで、文化的に楽しんでいるのを目の当たりにしている。

羨ましいなあ
譲位はしなかったものの、政治は良房に任せ
自分は文化にいそしんだ。
お父さんとおじさんは、漢詩が大好きだったけど
仁明天皇は和歌
ここから、ぐぐっと和歌が重要視される時代に入っていくのです。

藤原氏の栄華の時代はもうまもなくですが
一般的には、藤原氏がわがまま放題で、天皇をないがしろにして、ってイメージですが
実は持ちつ持たれつ。

政治より文化が大好きな天皇がこれから続いていくので
厄介な政治を引き受けてくれる藤原氏は有難い存在。

悪いねえ、押し付けちゃって
変わりに好きなようにしていいからね、って感じです。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です