[天皇]56 清和天皇。藤原氏による摂政関白時代のスタート

清和天皇
858~876年

文徳天皇が32歳で急死
その時、皇太子は僅かに9歳
清和天皇の誕生です。

こんな例は今までありません。
生まれたての親王を皇太子にする例もなかったが
そのあと、天皇が急死するなんて。

9歳で天皇の職務を全う出来る筈もない

そんな時、奈良時代までであれば、皇族内で役割分担をしながら乗りきった
皇太子と
皇后と
太政天皇と

ところが
皇后というものがそもそも置かれなくなっていたし
平城太政天皇の時の失敗から
天皇は譲位後は、一切政治に口出ししなくなっていた。

今回の場合は、太政天皇は亡くなっていた訳ですが。

天皇ひとりに集中するようになっていて
天皇もそれを煩わしいと思っていた。

そんな背景があって、藤原氏は政治の多くを担当するようになっていった。
見方を変えれば
藤原氏がそう仕向けていったとも言える。

以前、推古天皇の時に
聖徳太子が摂政という立場で天皇の業務を補佐した。
あくまでも、聖徳太子も皇族。

初めて天皇ではない臣下の者が摂政につくことになった。
藤原良房
藤原氏による摂政関白時代のスタートです。

応天門事件
摂政が置かれるようになったきっかけをみましょう。

即位から6年後、15歳になったので元服
よし、ようやく一人前
と思ったら、嫌ーな事件が起きた。

応天門が何者かによって放火され、焼失した。
応天門は、平安宮の八省院(朝堂院)の正門

元服したものの、
怖いよう

こういう事件って、絶対に権力者が自分の都合が良いように利用する。

藤原良房はこんな風に言ったら喜ぶだろうという忖択がなされた。

大納言伴善男とその子中庸が放火しているのを見ましたよ

その時、藤原良房の一番のライバル
真実なんてどうでもいい

怖くて仕方ない清和天皇は
藤原良房に
「天下の政を摂行させる」との詔を出した。

元服までが摂政かと思うと、そうではなく
元服から摂政だったんですね

じゃあ逆に、元服までは、藤原良房は摂政としての職務は果たしていなかったのか

そんな筈ないですね
9歳ですから

実質摂政が、正式な摂政に変わったということです。

藤原基経(もとつね)
6年後、良房が69歳で亡くなります。
良房はお兄さんの子供をとても優秀だとして、養子にしていました。
藤原基経です。

摂政は基経に引き継がれることになります

清和天皇も頑張りました。
政治にもかなり積極的に関わったようです。

清和源氏
藤原氏による摂政関白時代のスタートだった清和天皇

ところが、次の時代の種も芽生えていたのです。

桓武天皇の時に皇太子以外の息子に平氏の姓を与え、臣籍降下
嵯峨天皇の時は源氏
それ以降どんどん元皇族の平氏や源氏が増えていきます。
例えば、応天門事件で、伴氏を排斥し
もう藤原氏のライバルの元郷族はほとんど力を失ったのだけど
元皇族という平氏や源氏が藤原氏の新たなライバルになっていきます。

元々どの天皇の息子だったかによって、桓武平氏とか嵯峨源氏とかいう
清和源氏
この子孫で、源頼朝が出るのです。
さらに、その次の時代の、足利尊氏も清和源氏です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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