深川でお寺を歩く。その2

深川でお寺を歩く
の続きです。

小津安二郎誕生の地を越え

心行寺
福禄寿

冬木弁天堂
弁財天

深川公園

明治6年に出来た日本で最初の公園のひとつです。
以前は何だったかというと永代寺
永代寺があったんですよという、碑がありました

永代寺というのは、富岡八幡宮の別当寺
別当寺というのは神社を管理しているお寺という意味です。

長盛というお坊さんが、寛永元年(1624)永代島に寺を作り、永代寺という名前をもらう。
六地蔵のひとつがあったという、でっかいお寺。

神仏習合ですので、富岡八幡宮も作る。

ここは、永代島という島で延々と続く砂地。
何かあると水に浸かる、あまり使えない土地。
ここを埋め立てる。
あとで、富岡八幡宮のガイドさんに聞いたんですが
その土地を貸したり、分譲したりして不動産業みたいなことをしていたらしいです。

そんなこともあってかなり隆盛を極めたのに
明治維新で廃仏毀釈。明治元年に廃寺にさせられたんです。
お陰で、六地蔵も今は五つだけ。
更地になったあと明治6年に初めての公園になったというのは
ちょっと淋しい。

富岡八幡宮
恵比寿尊

何度か来ていますがなかなか奥が深い。
何と言っても私は八幡さんファンですが
東京で八幡さんと言えばやっぱりここ。

今まで行っていなかった、角乗りの碑

富岡八幡宮には、ガイドさんがおられます。
東京の神社仏閣でガイドさんがおられるのはここだけじゃないでしょうか。
浅草寺でも浅草寺としてのガイドさんはおられなかったと思う。

一通り回った後、ガイドさんにガイドをお願いに行きました。

歴史を伺い、さっきの不動産の話。

お隣の深川不動さんは商売上手でらっしゃいますが
こっちは、昔から商売下手
不動産商売の方があったので神社の方にあまり力が入っていなかった。
若貴ブームの時の宮司さんがこれじゃダメだと、
ここは、相撲発祥の地ですから、土俵入りのセレモニーをしてもらうようにして
それからですね。

例のあの事件の時は大変だったでしょう。

はい。もうその事ばかり聞かれて。
事件の現場に案内してくれとか
ご勘弁いただきましたけど。

江戸時代は幕府との関係がうまくいっていて
明治になって、永代寺は廃寺になりましたが、こちらは残った。
元々、八幡宮と天皇とは繋がりが深かったので、
幕府から朝廷にうまく乗り換えられたと言いますか。

そちらに天皇陛下が来られた時の碑があります。

昭和20年3月18日と書いてあります。

それまで、皇居にいて、外の事がよく分からない。
今、町はどういう状態なのか、とおっしゃって。
八幡宮への参拝という形にして、視察されたんです。

えっ
昭和20年3月18日って、東京大空襲が3月10日だから、そのすぐあとですよね。
この辺りも大空襲を受けたんですか?

はい。もう一面焼け野原で、ひどいもんだったそうです。
何とか死体とかを陛下の目に入らないよう片付けたんだけど
やっぱり全部は片付けられなかったそうです。

そうですか
実情を見られたんですか。
だから、ポツダム宣言を受託したんですね。

そのあとの原爆は決め手になったとは思いますが
この日見られた事はひとつの要因になったと思います。

こちらによろしいですか。陛下のお言葉の碑です。

身はいかになるとも いくさとどめけり
ただ たふれゆく 民をおもひて

終戦後の御製です。

降伏即ち、自分の命はない
それでも、惨状を目の当たりにすると、続けられなかったのでしょう。

ネットで、戦後朝日新聞にマッカーサー元帥との会見録の抜粋が出ていたので引用します。

私は日本の戦争遂行に伴う、いかなることにも、また事件にも全責任をとります。
また私は日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官・軍人・および政治家の行為に対しても
直接に責任を負います。
自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、
それは自分には問題ではない、私は全責任を負います

今回、ガイドさんに教えていただいて良かった。
何度か来ていても、この碑の存在は知りませんでした。

そのあと、横綱の碑や大関の碑
お神輿や例大祭の事もかなり詳しく伺いました。

ありがとうございました。

紀伊国屋文左衛門

八幡宮のすぐ横のここ
紀伊国屋文左衛門の住居跡です。
何の案内板もないんですけどね。

晩年、資財を使い果たしたあと、住んでいた場所になります。

黒崎稲荷
浅草の黒崎町、大火のあとに、移転させられたのがここ
だから黒崎稲荷なんですね。
雀の森とも言われていました。こんもりと森が繁っていたそうです。
江戸三森のひとつ

あとの二つは、新橋の烏森神社、人形町の椙森(すぎのもり)神社

この中に、鶴屋南北の住居跡があります

東海道四谷怪談。それ以外にも歌舞伎の大ヒット作がいっぱいあります。

死の床についたとき、弟子たちを枕元に呼びました。
弟子たちに配られた冊子は一体何だったかというと
自分の葬式の台本。

お集まりの皆々様~

七五調の名文です。

石島橋

私が今まで見た橋柱の中で、一番お洒落だと思います。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です