羽村郷土博物館で分かった。羽村堰は今も一緒。

羽村にも郷土博物館があり、前から行きたいと思っていました。
玉川上水の資料があるでしょう。

羽村郷土博物館
多摩川の手前にあるとずっと勘違いしていたんですが
地図を見ると、多摩川の向こう側
ちょっと遠いかな。橋も結構先。バスとかの方が良いんだろうか

観光案内所があったんで聞いてみました。
郷土博物館って結構かかりますか

いえ、歩いて20ほどです。
ここに橋があるので渡ってもらって。

GoogleMapで点々々とだけなっていたところは、ちゃんと橋でした。

車が通れないので点々々だったのね

天気の良い日の川辺の散歩にはちょうど良い距離でした。

羽村堰(せき)の展示
堰(せき)ってせき止めるの堰だから、今で言うとダム
昔は、こういう感じの堰だったけど、今はこういうダムですと
そんな事だろうと思っていました。

前回も羽村堰は見に来たけど、細かな構造と役割は分かっていませんでした。
今回、分かってみてビックリ

江戸時代の羽村堰と、今の羽村堰
材料は違うが、形も構造もそれぞれの役割も一緒。
最初から完成された形だったという事です。

さあ、一つ一つ見ていきましょう。

水を取水口に導いていく形ですが
昔と今では、ぴったり一緒です。

大堰通(おおせきどおり)という壁的な構造で水を導きます。

そして、水門が、一の水門と、二の水門があるのも一緒。
一の水門で取り込み過ぎた水を二の水門の前に、小吐口(こはきぐち)で多摩川側に戻してやるという考え方も一緒ですし
それぞれの門の場所もピッタリ一緒です。

水門の手前に、投渡(なげわたし)というのがあるのも一緒ですし
その役割と構造も、感動するくらい一緒なんです。

その横に筏通場(いかだとおしば)
さすがに今、筏が通ることは、ありませんが
今も同じ場所に、同じような構造のものが残してあります。

大堰通、一の水門、二の水門、小吐口、投渡が相互にうまく機能しながら
水量が多いとき、少ないときに適切な水量を玉川上水側に送り込む。
台風のように、水量が極端に多いときも、自分たちが壊れてしまわないように考えられている。
見事!としか言いようがありません。

さあ、それでは一つずつ、昔と今を対比させながら見ていきましょう。

水門
出ましたっ。一の水門。
博物館内に、実物大で再現してありました。

板を落としたり外したりで、玉川上水側に入る水を調整。

現在は木ではなく、こんな構造


機械的に開き具合を調整しますが、考え方としては一緒です。
実際の写真

二の水門は取り入れたすぐ後に置かれ
水が入りすぎていればここを閉じ気味にする
そうすると小吐口から水が多摩川側に戻る


実際の二の水門

小吐口

投渡
一の水門の手前で、川をせき止め、一の水門側に水を流し込む壁のような存在ですが
もし、完璧な壁構造なら、玉川上水側に水が入りすぎる。
特に、台風の時には、水圧でバラバラになってしまう。
一番の知恵の絞り処です。

柱は頑丈に作るけれども、壁の方は、そこそこにしか作らない
壁は丸太で組んで中に木の枝をガシャガシャって詰め込んである
台風の時には、水圧で壁だけが壊れる

一の水門の水量調整は人がやるけど
こちらは、そんなことしているうちに人ごと流されちゃうから
台風自身にその仕事をやってもらおうという発想。
だから、投渡(なげわたし)なんです。

そして感動的なことに、
今も柱こそコンクリートになったものの、壁は全く同じ構造だってことです。
丸太で組んで、木の枝をガシャガシャ

今の世の中、柱も壁も強固な構造にし、水圧をコンピュータ制御して
自動的にパカッと開くように出来るんじゃない?って思うけど
台風という災害の時。
コンピュータのようなものに頼ってもしうまく作動しなかったときの
周辺への洪水被害を考えると
原始的なやり方の方が信頼できるという結論なのでしょう。
実際の写真

明治初期の投渡

明治後期で柱がコンクリートになった段階

そして台風の時の写真
昭和60年。まさに丸太が壊れる瞬間

平成25年。丸太が全部壊れた状態。

続きは、明日にします。

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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