永代橋落ちたのかぁ

町年寄探しやらもろもろ
の続きです。

日本橋から
■江戸秤座跡
これも江戸時代
度量衡の統一で、重さの基準の秤はここの秤に合わせるべし

■歌川広重旧居跡
全国信用組合の本部の建物のところ
ここはGoogleMapに歌川広重旧居跡とあったのに
案内板なし
GoogleMapへの写真投稿で2年前にこういうのが出ているから
2年前にはあったはず

歌川広重は日本の宝なんだから、案内板外しちゃまずいんじゃないでしょうか
ぐるぐる探して回る私みたいな人もいるわけですし。

まあ、広重は借金取りに追われて、ほとんどここにはいなかったそうですが。

■阪本小学校

明治5(1872)年に近代的学校制度である「学制」ができ、
翌年から全国に学校を開設しました。
全国を7つの大学区、239の中学区、42451の小学区に分け、
それぞれに大学校、中学校、小学校を設置
の筈だったんですが、ちょっと間に会わず
大学校は出来ませんでした。

小学校は12558校が開校しましたがそのうちの1校がこの阪本小学校。

なんだ。そんなに数が多いんだったら、たいそうに言うほどの事でも。

いえいえ、阪本小学校は
第一大学区第一中学区第一番官立小学 阪本学校
一、一、一と付いているのは、阪本小学校だけ
ただ、最初に出来た小学校ではないところがややこしい。
さらに前の明治3年に以下の小学校が出来ているんです。
  第一校 芝 増上寺源流院 (のちの鞆絵小学校)
  第二校 市ヶ谷 洞雲寺 (番町小学校)
  第三校 牛込 万昌院 (愛日小学校)
  第四校 本郷 本妙寺 (湯島小学校)
  第五校 浅草 西福治 (育英小学校)
  第六校 深川 長慶寺 (深川小学校)
この内、番町小学校と湯島小学校はウォーキングの時、確認してきました。

■坂本町公園
その隣の坂本町公園がまたすごい
日本で初めて公園としてちゃんと作った公園。
明治22年です。
明治になって西洋に習い、「公園」なるものを作ろうとなった。
まずは、寺の敷地とか、みんなが公園的意味合いで使っていたところを流用したんだけど
初めて、ちゃんと公園用地として確保して作ったのが坂本町公園

楽しみにしていたんだけど
工事中で入れませんでした
目一杯手を伸ばして塀の中を撮影したのがこれ

新川地区
茅場町も越え、新川地区に入ってきました。
■新川大神宮

新川と言えば、河村瑞賢(かわむらずいけん)
江戸には欠かせない大功労者
商人なんですが、全国に航路を拓く。
上方から江戸まで船で荷物をき運ぶときは、どこどこの港に寄ってとか
何時には潮の流れがこう変わるからいつ出発してみたいな事なんでしょう。

江戸についてから、町中へ荷物を運ぶための運河も
私財を投じて作っちゃった。
それが地名にもなっている新川です。

特に上方から江戸への荷物の中で重要なのが酒
最初の頃は、ほとんどのものは上方の方が良質だったんだけど
次第に、江戸近郊も技術が進歩していき、
醤油とかは江戸の近くでも良いものが作れるようになる。
最後まで、圧倒的に質の差が大きかったのが酒

中川船番所資料館でも、その辺の話はいっぱい出てきました。

新川の運河沿いには、酒を扱う商人が数多く軒を連ねます。
そんな酒屋さんたちに信仰されたのがこの新川大神宮なんです。

きれいに酒樽が奉納されていました。

■新川の跡碑

新川と新川大神宮は江戸時代の地図ではこんな位置関係です。

■越前堀公園

さっきの江戸時代の地図では、現代の地図も重なっていますが
広大な土地が、越前松平家の下屋敷で
その回りが堀で取り囲まれ、越前堀と呼ばれていた。
そのほんの一部が越前堀公園

あっ、お堀で象が水浴びしている。

ここに使われている石は、江戸時代に石垣として使われていたものらしい。
ほんとだ。矢穴がある

江戸時代初期に、この新川地区は霊厳寺があったので霊厳島と呼ばれていた。
明暦の大火の時、霊厳寺は全勝して、深川に移ったんですがね
ということの碑も公園内にありました

おっと。霊厳島か?

隅田川
新川の跡碑のすぐ横が隅田川

いつ来ても隅田川は気持ち良い

あっ、河村瑞賢の乗った船だ

ずいけーん
手を振ってみました

■永代橋

すごいよなあ。こんなでかい橋

改めてここに立ってみて
これが落ちるってすごいことだなあと思う

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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