[首相]20 岡田啓介。天皇機関説、2.26事件

岡田啓介
昭和9(1934)年~昭和11(1936)年。 海軍出身

斉藤実首相が帝人事件で退陣
そのあとだったので、岡田の清廉さが歓迎された。

ただ、あまり強くものを言えない性格
陸軍としては「組みし易し」であり、ぐいぐい押してくる

陸軍から関東軍、外務省の駐満全権大使、拓務省管轄の関東長官を
三位一体として配下に置きたいとの要請を突きつけられる

関東長官廃止の二位一体、実質ほぼ変わらない決着となり
陸軍の権限が強化されて、暴走が加速化していく。

そして、翌年に起きたのが天皇機関説騒動。

天皇機関説
憲法学会でそれまで「天皇機関説」というのが通説だった。

あくまでも、明治憲法下での話です。
現在の日本国憲法では、天皇は象徴ですので。

明治憲法では、こう書いてあります。
第1条:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権)
第4条:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権)

これをどう解釈するか。
1.最高の意思決定権は天皇にあるということ
2.でも、天皇は勝手にどんな事でもできる訳ではなく、憲法の範囲内
この二つはどの学説でも一緒

内閣総理大臣を含めた国務大臣をどうとらえるかは憲法に書いていないので
解釈が分かれる。

天皇機関説は、統治権と主権を分けて考える
統治権は「国家」にあり、主権が天皇にある
天皇は国家の中の機関に過ぎない。
国務大臣は天皇を助ける必要があり、天皇は国務大臣に助けてもらう必要がある
国務大臣は議会に対して責任を持つ。

天皇主権説は、統治権と主権を同じく考える
天皇はすなわち国家
天皇は、国務大臣に助けてもらう必要はなく
国務大臣は天皇に対してのみ責任を負う

明治の最初、薩長閥で政治を行っているときは
天皇主権説の方が都合が良かった。
なぜあの人が首相か、と問われた時
天皇に言われたから、とだけ言えば良かった。

でも、国会ができ、政党が出来てくると
その存在根拠を示す必要がある。
さらに、「憲政の常道」と呼ばれる、国会での多数派を占めた政党から首相を出すべし
という理論には、天皇との折り合いをどうつけるかが必要。
国民が選挙で選んだ議員の多数派が国務大臣を出し、
その国務大臣が天皇を補佐するのだと。

薩長閥政治から政党政治に移行するなかで
自然と憲法解釈も変わり、天皇機関説も通説となった。
昭和天皇自身も、大いに納得した。

ところが、軍の力が強大になり
政党政治が犬養毅の暗殺で終止符を打たされると
天皇機関説がやり玉に上がった。
やり玉の標的は、美濃部達吉。後の東京都知事美濃部亮吉のお父さん。

天皇は神であるのに、機関とはなにごとぞ
不敬極まりないと

本来、政党のための理論なのに
政党すら批判をはじめる
何でもかんでも批判すりゃ良いってもんじゃないのにね

最初岡田首相も、天皇機関説を支持していたのに
批判側に回り「国体明徴声明」という文書を出す。

即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。
若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、
是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり

そして、この流れはそのまま、2.26事件に繋がっていく。

2.26事件
昭和11(1936)年2月26日

陸軍皇道派の青年将校がクーデターを、起こし
政府要人たちを暗殺する計画

同居していた義理の弟、松尾伝蔵が岡田首相と間違えて殺される
髭もそっくりに調えており、もしもの時は身代わりになろうと考えていた節がある
右が松尾

押入れに隠れていた岡田首相は、弔問客の一人になりすまして脱出する。

斉藤実前首相、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが暗殺される。

2.26事件については別に書きますね。

暗殺は免れたものの、責任をとって辞任
謹慎生活を送る

岡田は、その後結局戦争への流れを止められなかったのを反省し
せめてもと、戦争を終了させるべく活動する
東條英機内閣打倒へ奔走する

終戦になり、東京裁判が行われると
再三証人として呼ばれる事になる。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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