[源平]15 壇の浦→義経討伐→落馬

[源平]1 武士の始まり
[源平]2 八幡太郎義家ここにあり
[源平]3 どっちにつこうかプレゼント大作戦
[源平]4 保元の乱(源平編)
[源平]5 平治の乱
[源平]6 平清盛快進撃
[源平]7 平清盛。おごれるものは
[源平]8 神戸に都を?
[源平]9 源頼朝、立つ
[源平]10 勝利のあとの惨敗
[源平]11 何で勝っちゃったの?
[源平]12 首ねぢ切つて捨ててんげり
[源平]13 一頭死んでますけどーーっ
[源平]14 屋島の戦い、やんややんやの大喝采
の続きです。

壇の浦の戦い

いよいよ最終決戦
天皇シリーズ、安徳天皇のところで書きましたので
そちらを見てくださいね
[天皇]81 安徳天皇。海の底に
今回は補足的な話だけ

直実と敦盛の一騎討ちだったり、那須与一の扇の的だったりの話があるので
昔の戦はのんびりしていたんだなあ、という印象ですが
のんびり戦を変えてしまったのは義経で
源平合戦からなんです。

卑怯な真似はせず、真っ正面から堂々と戦いましょう
というのがそれまでの戦

義経は血気盛んなので、殺すか殺されるかなのに正々堂々もあるかい、って考え方
一の谷の合戦で、崖の上から攻めたのも
それまでの常識からすると、やってはいけない事だったんです。

よく、壇の浦の合戦で、途中まで平家方が有利だったけど
潮の流れが変わって源氏が有利になったという話があります。

平将門の乱で、途中から風向きが変わって、
平将門が急に不利になったということからの発想だと思います。

風と矢の関係と、潮の流れは根本的に違う
電車に乗っている人は前に乗っている人と後ろに乗っている人の間が全く変わらないのと同じように
流れの上にある船も下にある船も同じように動くため、有利不利は全く無い

海での戦いは平家の方が慣れているので、複雑な潮の流れがあるとすると
むしろ平家の方が有利な筈
実際に、途中から源氏有利に変わったのは、
義経が海の戦いのルールにのっとらない卑怯な戦術を取ったから

戦うのは兵士たちだけど、船を操作するのは、
日頃から船の操作を生業にしている地元の民間の人達
船の操縦士は狙っちゃダメ
なのに、集中して操縦士を矢で狙い撃ち
操縦士を失った船は漂う木の葉の如し

義経以降、戦の戦術はルールなんてどうでもよく、勝てば良い、と変わるので
必ずしも義経が悪いと言い切れない

義経が嫌いな人は徹底的に嫌い
でも、結局義経のお陰で勝てた訳で
半分の人からは超ヒーロー扱い

義経の大きな間違いは、
頼朝は、ただただ自分に従順な人が好きだったことへの認識の甘さ

頼朝は大きな視野を持っている
清盛の失敗を踏まえ
「武士の世の中」を作るための仕組み作りを積み上げて行ける
対する義経が興味を持っているのは目の前の戦いに勝つことのみ

ならば、頼朝ももうひとつ上のレベルに上がるべきだったろう
自分と違うタイプの人間を活かしていく器量
しかも弟だった

三種の神器を回収出来なかったという決定的なミスをおかしていますしね

義経討伐命令を出し
東北に逃げた義経を追い詰めて殺してしまう

もうひとりの弟、範頼は頼朝に徹底的に従順
頼朝は範頼が可愛い

義経なきあとは範頼を重用して
普通はそうなります。

ところがどうにも理解出来ないことが起きる

頼朝が富士山麓で大規模な巻狩りを行ったとき
曽我兄弟の仇討ちが起きる

歌舞伎で圧倒的人気なのが曽我兄弟の仇討ち
頼朝の家臣である曽我祐成・時致兄弟が、
父の仇敵だとしてかねてから付け狙っていた工藤祐経を、
巻狩りのどさくさに乗じて討ち取った

天晴れ!って感じなんだけど
さらに話がおかしな方向に行く

曽我兄弟は実は頼朝の首を狙っていたと
いやいや、仇討ちなんだからそんなはずありません

さらにその背後に範頼がいる

えっ、何それ、馬鹿馬鹿しい
で終わりの筈の話なのに
頼朝はこの噂を信じてしまった。

結局周りの全ての人を信じられなくなっていたのかも知れません

範頼が殺されてしまいます
範頼は殺しちゃいかんでしょう
どうにも理解ができません

落馬
建久10(1199)年1月13日
前年の暮れに頼朝の御家人稲毛重成が、
亡妻の冥福を祈るため相模川に橋を架けた。
重成の妻は政子の妹。
その関係で頼朝は橋供養に招待され出席した
その帰りに、頼朝は馬から落ち、それがもとで死亡
53歳だった

武士の棟梁です
落馬ってねえ
当時から怪しむ声があった。

「武士の世の中」は作れても「源氏の世の中」は作れなかった
身内を殺しちゃったので、頼朝の直系はたった3代で途絶えてしまう

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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