[天皇]90 亀山天皇。半分は亀山天皇のおかげ

亀山天皇
1259~1274年

後深草天皇が病弱だったため、弟に無理矢理譲位させられた。
その弟が、亀山天皇

しかも、その次の天皇すなわち皇太子に、亀山天皇の子供が就く
後深草は悔しくて仕方ない。
自分が譲位させられたのは、諦めるとしても
その次は、自分の息子を天皇にさせてやりたい。

無念のうちに出家しようと考えた

これに心を動かされたのが、関東申次役の西園寺兼実
よっしゃわしに任しとけ
鎌倉の執権時宗に、なんとかしてやってくれないか

時宗が間に入って、後深草と亀山の間で合意がとれ
亀山の次の次は、後深草の息子にしましょう。

良かったね

ただ、ここだけ見ると良かったね、なんだけど
果たしてこれが良かったことなのかどうか

後深草系と、亀山系が派閥に分かれ
後深草系は持明院統(後の北朝)、亀山系は大覚寺統(後の南朝)と称して
先々まで、天皇家が分裂していくことになる

亀山天皇
亀山天皇は大覚寺統の祖ということになるのだけど
時代は、こういう派閥争いをしている場合じゃなかった。

元から敵が日本を侵略しにやってくる
亀山天皇が即位したすぐあとくらいから、元から使者がやって来て
我々の軍門に下りなさい、さもなくば軍が攻めていきますからね
再三の使者

どうする

実質的には、執権時宗が実権を握っているとはいえ
ここまで大きな事態になれば、天皇として意思決定に関わらねばなりません。

判断を誤れば、日本史上最後の天皇になることだって十分にあり得る

次の次の天皇をどうするなんて言っている場合じゃありません。

時宗と一枚岩になって出した結論は

要求拒否
徹底防御体制で戦う

具体的に、どこに何を作って
誰をどう配備させて、ってことは
時宗さんお願いね
そういうの苦手なもので。

私は、っていうと
目一杯の神頼み

息子の後宇多天皇に譲位し、院政を始めた直後
1974年、ぶえーっ、元が攻めてきちゃったよお
文永の役

亀山・後宇多の上皇・天皇、院宮、関白家
みーんな集めて、連日連夜の祈祷

〈国難撃撰〉と〈敵国降伏〉を食筆の願文にこめて、
勅使を伊勢神宮へ走らせた。

みずからの身命をかえても惜しくはない、と願文にしたためた

さらに、石清水八幡にも行幸して、
同様の敵国降伏をいちずに祈念した。

そのおりは、西大寺の長老・叡尊が直読に代え、
大般若経をささげたともいう。
天皇としてできる限りの祈願

何だよ、それだけ?
と言うなかれ
結果論ではありますが
再度の来襲、こあーっ弘安の役の時も含め

時宗の防衛準備に加えて
神風(台風)がやって来て、追い返す事が出来た訳なので
半分は亀山天皇のおかげ

かな?

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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