[歳時記]3/10 東京大空襲

1945/3/10 東京大空襲

大好きだった永六輔さんのTBSラジオ「土曜ワイドその新世界」では、
毎年3/10の週には、東京大空襲の体験談等のお便りが届き、その話題
ご自身の体験とも重ね合わせ、声を詰まらせる事もしばしばでした。

まさか時を経て、3/11と連続するとは

永さんの遺志を受け継ぎ、ネットにいくつか出ている体験談を紹介したいと思います。

かいつまみますが、表現自体はオリジナルそのままとします。
引用元はこちら
東京大空襲体験記

「焼夷弾だ、防空濠から出ろ」
と叫ぶのを聞きました。

表に出てみると西の方角が視野いっぱい180度の方角で燃え上がり、
空からは焼夷弾が雨霰と落ちてきていました。
大人たちは、
「高橋よりも遠いから水天宮の辺りかな」
とはなしていましたが、誰からとなく、
「危ないぞ、逃げろ」
という声でざわめいたと思う間もなく、私と弟が二人きり取り残されてしまいました。

横を通る大八車に荷物を乗せてもらい、後から押して橋の途中まで行きましたが、火の粉と風がもの凄く、大八車に火がついてしまいました。
柳行李を車から降ろした途端、紐が解けて蓋が開き、その途端に中の衣類が風に舞って全部飛んでいってしまいました。
進むか退くかためらいましたが、結局戻ることにしました。
風がすごいので立って歩くことも出来ず、這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着きました。

その間ひっきりなしにドラム缶か何かの爆発音を聞きました。
小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方が盛んに燃えていました。
夜が明けて外に出ると、辺りはもう全部焼け落ちていました。
五〇ぐらいの女の人が火膨れになって顔面蒼白、虫の息で交番に寄りかかっていました。
錦糸町行きの市電の線路には七歳ぐらいの女の子がうつぶせになって死んでいました。
どこも焼けていなかったので、煙りによる窒息死だったのでしょう。
兄や姉を探して住吉町まで行きましたが、丸焦げ、半焦げの死体が仰向けになったり、手を伸ばしたり、様々の体位で重なって道をふさいでいました。
死体を跨いで行くのですが、電線の焼けた臭いや死体の脂の焼けた臭いに混じって、今思い出してもぞっとするような嫌な臭いでした。
兄達に会えないので住吉町から家に戻りましたが、その途中にも数限りない死体を見ました。

その警察の拘置所には囚人が鉄格子にしがみついて死んでいました。

弟は火炎によって目をやられていたので、近所で焼け残っていた乳母車に乗せて行きました。
小石川辺りからは焼けていず、電車を待つ人などが、私達を見てかわいそうにかわいそうにと声を掛けてくれました。
板橋に着いて櫛を借りて頭をとかそうとしても焼け縮れて櫛が通りませんでした。
叔父が行方不明なので、明くる日かその次ぎの日だったと思いますが探しに行きました。
言問橋辺りから隅田川の河原に降りていったら数百の死体が、並べられていましたが叔父はいませんでした。
丸焦げ死体は軍が出動してトラックで運んでいったので、おそらくその中に含まれていたのだと思います。

以上が、3月10日未明の10万人の死者をだしたB29による下町絨毯爆撃の被災体験記です。

[歳時記]シリーズはこちら(少し下げてね)

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