江戸城ってほとんど天守閣なかったんですね

今度、ウォーキング同好会で、江戸城(皇居)のイベントやるんですが
調べれば調べるほど、江戸城って面白いですね

ことの始め
ことの始めは写真集「写真で見る江戸東京」
明治4年に荒廃する江戸城の中を写真撮影したもの

そこから、疑問がどんどん広がり、色んな本を読み漁りました

まず、あれっと思った最初は、「天守閣がない」。

天守閣って
そんなことも知らなかったの?
って言われそうですね

色んな地方の城跡って天守閣があったりなかったり。
天守閣が、無いって言ってもそう珍しいことでもない

明治になったら城なんて必要ないですから、
誰かが壊したんでしょうぐらいに軽く考えていた。

不思議だったのは、この写真集の撮影された時期。
明治4年で、すでに「天守台跡」と表現されている。

こりゃ、相当急いで壊したんだな。

調べてみました

大元は
大元でいうと、その土地の「江戸氏」の領地
入り江の入り口(戸)だから「江戸」と名付けられた

その後、室町時代後期に、北条氏の家臣、太田道灌(おおたどうかん)が北条氏の城小田原城の支城として江戸城を建設

徳川家康が、豊臣秀吉の命令で北条氏を滅ぼして、自分のものにする
江戸の町の再開発に乗り出す

再開発中断
豊臣秀吉にあれやれこれやれ、言われて、再開発どころじゃなくなった。
江戸湊から運河(堀)を作って江戸城まで繋げようとしてたんだけど一旦中止

そのあと、皆さんご存じのあれやこれやがあって、1600年の関が原の戦いに勝利した徳川家康が天下取り

幕府を江戸に。

さあたいへん。
首都機能ってことになると話が変わってくる

もうちょっと土地が欲しい

何故かって

江戸城の横って、入り組んだ「日比谷湊」という遠浅の海。
ご存じでした?
日比谷とか丸の内って海だったんですね

どうしたかというと、神田山を切り崩して、日比谷湊を埋め立てる

ご存じでした?
神田って山だったんですね

そして、天守閣を大々的に作り替え
5層5階の46メートルもあるでっかいお城

その後、二代秀忠、三代家光の時代にやっと江戸のお城作り、町作りが一旦完成。

やったー

残念っ
ところが、その次の家継の時代にえらいことが起きる
1857年、明暦の大火
天守閣、本丸、二の丸、三の丸全部焼け落ちた。
江戸の町も8割り近く焼けてしまう。

さあ、ここからが大変。

どうしたか。
今からは平和の時代。
天守閣を作り直すのはやめよう。

これってすごくないですか。
この後、トータル260年も続く平和の世の中をこの時点で読みきって
城を不要だと判断。
無駄なハコモノに金を使うのはやめようと。
誰かさんに聞かしてやりたい。

本丸御殿とかは作り直したんですけど

町作りの方は大々的に災害に強い町作りに再開発
決定的な消防技術が無い時代の考え方は、どう消すかではなく、どう燃え広がらないか
道を広くするとか、広場を作るとか

その後も、3大火事と言って、度々大火事にみまわれます。

最初にお話した、写真の謎は解けました。
もともと、天守閣は無かった

260年の江戸の歴史の中で天守閣があったのは、最初の50年ちょっとだけ

本丸御殿は
写真集に天守閣が無いのは分かりました

ところがです。

本丸の写真には、もっと根本的に何もない。
原っぱなんです。

本丸を見に行ったとき、本丸御殿後、ここに大奥があって、みたいなのが書いてあったんですけど。

実は、本丸御殿も、もともと無かった。

1863年、本丸御殿は火事で焼け落ちてしまうんです。
1867年が大政奉還ですから、激動も激動
明日、我が身がどうなるかってとき。
今更、再建するかって悩んだでしょうね
さらにいうと、1855年の安政の大地震で金を使い果たしています。

西の丸だの二の丸だのに仮住まいしていたんでしょうね。

江戸城の無血開城って、本丸には何もない状態で明け渡したんですね

これ以外にも江戸城にまつわる話は面白い話は色々あるので、続きはまた。

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