「ことば日本史」戦国時代から
洞(ほら)が峠を決め込む
明智光秀が本能寺に信長を襲った翌日の6月3日、
高松城を包囲中だった羽柴秀吉は知らせを受けとった。
秀吉の判断と行動はすばやく、
翌日には毛利軍と講和をむすび、
6日に高松を出発、7日には姫路に入った。
いわゆる「中国大返し」である。
9日、姫路を出発。
11日、尼崎に到着。
12日、摂津富田へ進出し、その翌日、
山崎で光秀軍との決戦「山崎の戦」となる。
ここで慣用句の主は筒井順慶
そのお父さんは「元の木阿弥」の時に紹介した筒井順昭です
[ことば日本史]もとのもくあみ
もともと、光秀に仕えていたから
光秀から応援要請を受けた
ところが
筒井順慶は山崎の戦いの様子を見守れる近くの洞が峠陣を張ったまま
どうしよっかなあ
光秀軍の敗北がはっきりしてきた頃になって、
よし、出陣
秀吉軍に参加した。
これにちなんで、情勢を日和見しながら有利な方につこうとするような態度を、
「洞が峠を決め込む」と呼ぶようになった。
ただし、これは後の創作
順慶は洞が峠には出陣してさえいなかった。
藤田達生『本能寺の変の群像』(雄山閣)によれば、
光秀のクーデターは、室町将軍義昭、朝廷、本願寺などに根回しして
周到な準備のうえで決行されたものだったという。
だが、山崎の戦になるまでに秀吉が、
信長は無事であるという虚偽をもふくめた情報と協力依頼とを
すばやく各地に送り届けたために、
クーデターに呼応するはずだった
細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶、摂津の諸将らは、
光秀を見捨ててしまったのである。
とはいえ実際にも、
世の噂では光秀につくものと思われていた順慶が、
兵を動かしたのは戦の翌日、14日。
本人が上洛して陣を張ったのは15日。
あまりに遅すぎて、秀吉から叱責を受けている。
洞が峠という場所にはいなかったにせよ、
迷いに迷いながら、情勢がはっきりしてから
態度を決したことは確かだった。