[ことば日本史] 天下分け目の天王山

羽柴秀吉は、信長の死を知ると、包囲中の高松城の毛利氏とただちに講和をむすび、
迅速に兵をかえし、西国街道を上がってきた。

勝負は、京都盆地にはいる大山崎でつけられることになった。
秀吉は、摂津の諸将を糾合して富田に着陣、
織田信孝らの兵を合わせ、軍を山手、中手道筋、川手の三手に分け、
十三日に進撃する。

光秀は、細川、筒井氏を欠く劣勢のまま
勝竜寺城から淀城の間で迎撃しようとし、
十三日午後、秀吉の軍と激突。

光秀側で戦上手で知られる斎藤利三が大活躍
序盤は、光秀軍優勢に進みます。

天王山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田官兵衛らの部隊は、
天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦状態に入ります。

そのまま1時間ほど、一進一退の攻防を続けますが、
右翼(川手側)に配置されていた、池田恒興、池田元助、加藤光泰らが密かに円明寺川を渡河し、
津田信春を奇襲します。
それが光秀本隊の側面を突くような格好になり戦局が一変します。

あえなく敗退した光秀は、夕方、勝竜寺城に入り、
深夜を待って、近江へ向けて逃走するが、
その途中、山科の小栗栖(おぐるす)で土一揆に襲われて殺された。

この山崎の戦は、
序盤の天王山での攻防が勝敗を決したといわれるようになり、
天王山の戦とも呼ばれるようになった。
そこで、 勝負のかかった山場を「天王山」というようになった。

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