般若心経を、こう読みました

前回、寛永寺で般若心経を唱えた話をしました。

般若心経の解説を期待しますと、コメントいただいちゃいました。

本一冊および、ネットでいっぱい、結構色々読みましたが、読めば読むほど、踏み込んで良いものかと思います。

般若心経の解釈をどうするかということが、仏教の宗派の違いに直結しています。

方法としては、ひとつしかありません。
開き直ること。

「般若心経は、こう書いてあります」は到底無理です。
般若心経を、私でーこんは、こう読みました。
これでいきましょう。

ということなので、違ってるよ、という突っ込みはご勘弁でお願いします。
私はこう読むけど、というの、大歓迎です。

シチュエーション
観音さまが、舎利子さんに、話しかける設定です。
あの孫悟空で有名な三蔵法師が、インドからお経を持ち帰り、
般若心経として中国語に翻訳かつ解説。
その時点でこういう設定にしたみたいですね。

まず、いきなり結論言っちゃいましょう。
般若心経で言いたかったこと。

「空」(くう)です。

観音さまは大乗仏教、舎利子さんは小乗仏教という図式で描いてるんだと思います。
舎利子さんはお釈迦様の一番弟子の超大物。
小乗仏教のトップとも位置付けられます。

平たく言うと、小乗仏教は、特定少人数の修行をした人だけのもので、
大乗仏教は、不特定多数のみんなのための仏教。

空は余りにも深い概念だけど、ひとつの言い換えとして
「こだわるな」だとすると、
小乗仏教がこだわりがちであることに対しての、どうよ、ということ
でも、他派批判みたいなちっさな事を、わざわざ言いたい訳じゃない。
とかく人間がこだわりがちなこと、って言い換えるべきでしょうね。

3部
大きく分けて、3つの固まりになります。
まずは、結論言ってます。

舎利子、私、分かりかけてるんですよ。
やっぱり、空ですね。

照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)
五蘊って、色受想行識に分かれるんだけど、心とからだの全部。
色は体で識に行くほど心になっていく。

心とからだの全部は空ですね

その内、色を例に挙げたのが、超有名な
色即是空、空即是色。(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)
残りの4つも以下同文

そして、その次の固まりで、それ以外の、
仏教で大切にされている概念をあげていって
これも空です。あれも空です。
だから、今後はそんなことにこだわらなくていいですよ。

六根、六境、十八界、十二縁起、四聖諦
ぜーんぶ、空

空って
じゃあ、空って何よ、になる訳で
この解釈が十人十色なんでしょうね。

ある意味、自分なりにとらえてね、的な言い回しなので
遠慮せず、私なりのとらえ方を言っちゃいましょう。

一つヒントになるのは、無との違い。
最初に色は空、受想行識は以下同文、と言っときながら
もう一回、
是故空中、無色、無受想行識(ぜこくうちゅうむしき、むじゅそうぎょうしき)
と出てくる。

だから、空の中では、色も受想行識も無いことになるんですと。

少なくとも、空と無は違うものということ。
とすると、あれかな、と思い当たるのが、
新宿のお寺さんで、座禅を組ませてもらった後に
ありがたいお話を聞かせてもらった時に聞いたこと。

普通、自分って、どこからどこまでってあるじゃないですか。
皮膚で覆われていて、そこより中が自分で、外が自分ではない。
それを否定しましょうって言われた。

自分と相手ってことで言うと
普通だと、自分、間の空気、相手
でも境がないんだったら、自分と相手はべたーっと一緒。

宇宙全体がひとつのもの。
そのなかに溶け込んで境がなくいっしょくたになっているのが自分。
もちろん自分だけじゃなく、すべてのものが実は一緒。

そうすると、色んなことがいい意味で、
ああつまらん。
どうでもいいやん。
になる。
「私は」とか「あなたは」ってこと自体なくなるんだから

そういう世界が空だとしたら。
その中にある色(からだ)っでどっからどこまで?

無色って、区別できないから体があるとは言えないってことで
決してNothingではない。
むしろ全体と一緒のものとして、「ある」に近い。
だから、最初に色即是空、のあとに、空即是色と言ってるんですね。

この概念、空間的にもそうなんだけど、
時間を掛算した四次元的にもそうなる。
となると、すごいことになる。

死ぬことすらなくなる。
不生不滅(ふしょうふめつ)
乃至無老死(ないしふろうし)

さとりを開いて、仏になることになる。
般若心経の言葉で言うと
般若波羅蜜多(はんにゃーはらーみーた)

このあたり、もっと話したいので、いったん区切って
次回回しにしますね

最後に
そして、最後の固まり。
これが違和感あるというか、唐突というか
急に方法論になる

最後まで禅問答で終わっては、受け入れられない可能性がありますね。
話が壮大すぎるので、
私はついていけないわ、
になっちゃうと大乗仏教の本来の趣旨じゃなくなっちゃう。
何せみんなのためのお経ですから。

般若波羅蜜多に、だれでも行きつけるんですよと書いてある。
こうすればね、という方法論。

勿体つけて申し訳ありませんが
ここもいっぱい面白いので、次回ね。

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