初の電子式テレビは日本人から

テレビ、ああテレビ

テレビの初めてが日本人だとは

高柳健次郎
高柳健次郎の幼少期は体があまり丈夫でなく、色白
手足も細かったので、ついたあだ名が「お姫様」

学校の成績は悪く、運動も苦手。
そんな少年が、唯一興味を持ったのが機械。
機械いじりが大好き。

そんなとき、小学校に軍艦信濃の水兵が無線のデモンストレーションに来てくれた。
もう、それからは無線に熱中。

大人になって
高柳はフランスの雑誌で、「未来のテレビジョン」という一枚の絵を見つける。
大正12年
ラジオのような箱の中にある額縁の中で女性が歌っている

ヨーロッパでは、もうテレビジョンの開発をやり始めているということか

翌年、浜松高等工業高校に助教授として赴任。

ここで、テレビジョンの本格的な研究を始める。
その翌年、結婚したが、持参金300円も実験費用に使ってしまう。

実験成功
大正15(1926)年12月26日
大正天皇の崩御の日だった。

実験室のブラウン艦に「イ」の字が映る
これが世界初の電子式テレビ。

いろはのイの字なんですね
アじゃない
絵でもない

ちなみに、電子式テレビで世界初ということは
それ以外式で何かがあった?
前年に機械式テレビというのが成功している
ニポー円盤という小さな穴がいっぱいあいた円盤がぐるぐる回る
そこを光が出たり入ったり

実は高柳がイの字で成功したときも
撮影する側はニポー円盤を使っている
受像側がブラウン管で電子式。

展覧会
昭和5年の3月。
日比谷公園で行われたNHKのラジオ放送5周年を記念する展覧会が行われた
高柳は、直径12インチのブラウン管テレビを出品。

大正天皇の崩御の日に実験成功
昭和5年にNHKラジオ放送5周年ということは
ラジオ放送が始まったとほぼ同時に
テレビの実験にも成功しているということ
恐るべし。

同年5月、天皇陛下がテレビ実験を見るために、浜松まで来られることになった
これはえらいこっちゃ
ということで、急遽、助教授から教授に昇格。

東京オリンピック
その後、NHKの委託研究員となる
東京オリンピックをテレビ中継するぞと、
国家をあげて開発

あれ?
東京オリンピックって、普通にテレビ放送されていたような

はい、ここでいう東京オリンピックは
もうひとつ前の東京オリンピックです。
決まっていたのに戦争に突入したため中止となった
幻の東京オリンピック

東京オリンピックの中止で、開発も中止
残念!

戦争、戦後
その後、太平洋戦争が始まり
高柳も戦地へ
帰ってきて、さあ再開だ

でも、GHQから禁止されてしまう

苦労して苦労して、日本ビクターに入る
禁止も解除されて、ようやく。

テレビ受像器の開発やVHSビデオの開発など
日本のテレビの父と呼ばれる大活躍をします。
日本ビクターの副社長とか、技術最高顧問とかも歴任します。

テレビ小説
初のテレビということでうっすらと記憶しているのが、朝のテレビ小説
昔、男性が主人公で、最初にテレビを作った人がモデルっていうのがあった気がする

調べてみました。
今は便利ですね。
疑問に思うとすぐにインターネットで答えが出ちゃう。

凛凜と
確かにありました。
男性が単独で主人公というのは、これを含めて2つしかありません。

これは当然、高柳健次郎がモデルでしょうと思いきや
違っていました。
川原田政太郎という人
高柳健次郎のライバルです。

高柳健次郎のが浜松工業高校式というのに比べ
川原田政太郎のは、早稲田式と呼ばれていました。
機械式です。

それにしても不思議ですね。
NHKの委託研究員だった高柳健次郎をさしおいて
なんでまた、ライバルの人をNHKの顔とも言うべき、
朝の連続テレビ小説の主人公にしたんでしょう。

まあ、川原田政太郎もすごい人で、テレビに関する特許をものすごい数持っている
二人で切磋琢磨しながら、日本のテレビ界を引っ張っていった。
当然、川原田もNHKとは関係あったんでしょうね

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