伊能忠敬の、隠居後の第二の人生は?(続き)

地図作り
いよいよ地図作りです。
伊能忠敬55歳でのスタート。

忠敬の一歩は69cm
訓練して、そうした。
体調が良いときも悪いときも69cmってかなりすごいです。

3年で、東日本を踏覇

作成した地図を元に、距離を計算。

師匠の高橋至時も、並行して、文献を探し回る
至時が見つけた、オランダの本。
忠敬が弾き出した地球の外周
ピッタリ一致の約4万km

二人は歓喜に包まれ、抱き合ったと言います。

現在分かっている正確な外周と誤差が0.1%以下。
驚異です。

この喜びの中、至時は結核にかかり
40歳でこの世を去ってしまった。
以後、忠敬は毎朝欠かさずに至時の墓の方向を向いて合掌した。

それから7か月後、完成した地図を幕府に献上
11代将軍家斉(いえなり)は
あまりの出来映えに大喜び。
苦労が報われた瞬間でしょうね。


家斉は何と言ったか

西日本もお願い。

西日本
西日本に出発したのは、もう60歳を超えていた。

一回やって慣れているし
また、3年くらいだろうか

いえ、ぐんとペースが落ちてしまいました。
体力の限界。

3年が過ぎた段階で、九州が全くの手付かず。
娘さんへ宛てた手紙には

歯はほとんど抜け落ち一本になってしまった。
もう、奈良漬けも食べられない。

一番頼りにしていた副隊長の急死とかもあり
壮絶なる測量。

ようやく、江戸の八丁堀で最後の測量完了。

その時、71歳。
55歳から、足かけ17年。
歩いた距離は4万km

そうです。
地球の外周と一緒です。

そして、その費用はほぼ自分で賄っている。

地図に
測量結果を元に、地図にしていく。
これがまた、かなりの作業。

地球は球体なので、地図の平面にするときに
計算し直さないといけない。
日本でもそうなんですね。
逆に言うと、そこまで完璧にやった地図。

最後の最後
その作業の最後の最後に忠敬は肺の病で帰らぬ人になります。

私は、弟子たちのやったことに感激しちゃいました。

忠敬の死を隠したのです。

江戸城大広間に、幕府の重鎮が見守る中
繋ぎ合わされた地図が広げられます。

この大偉業
あくまでも、伊能忠敬がやり遂げたことでございます。

死が公表されたのは、その3か月後


人生に悩んだら「日本史に聞こう」の本は、夢について書いています。

夢って何なんだろう。

夜な夜な出掛けて静かに星を見上げていた。
でも、夢は横に置いておいて、ひたすら仕事に精を出す。
人生50年時代の50歳になってもやっぱりやりたい。
猛烈に勉強して、
地球の外周を知りたくなって。
地図作りって幕府に許可を得るための、言わば口実。
少なくとも外周が分かったあとは、付け足しみたいなもん。

でも、もちろんいやいやじゃなかったでしょうね。
いやいややったような仕事の完成度じゃない。

夢って何なんでしょう。
人生って何なんでしょう。

やりたいことだけをやることが夢なんだろうか。

胸に突き刺さる。

これから始まるであろう、私の第二の人生。
どう組み立てていこうか。
ちゃんと考えないと
伊能忠敬に対して失礼に当たる。

でも、
もしこれだって形じゃなくっても
目の前の事を精一杯にやる美学

伊能忠敬の生き方なんだなあ

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