[徳川名参謀]1家康→本多正信

徳川十五代闇将軍、という本を読みました。

徳川15代将軍シリーズを以前やりましたが
感じたのは、
一部の吉宗とかを除いては
実質政治を動かしていたのは、
参謀としての老中だったりだなあという事実。

それは、悪いことではないし
かといって、将軍の個性が時代に反映しなかったかというと
決してそうではない。
お飾りではない。

ただ、将軍以上に世の中を動かしていた人たちがいたということ。

原則、将軍一人に対して一人ずつ、名参謀として紹介していきたいと思う。

引用元の本では、闇将軍という刺激的なタイトルをつけていますが
プラスの印象である、名参謀に読み替えちゃいました。

それでは、第一代から
本多正信(ほんだまさのぶ)です。

徳川家康
家康が征夷大将軍に任じられたのが1603年。
将軍職を秀忠に譲るのが1605年。
少なくとも形式的には、家康の在位期間は2年でしかない。
もちろん、実質的には大きな影響力は持つわけだが
あまり江戸にはいなかった。

やるべき事の二つの大きなテーマとしては
権力基盤の強化と、
江戸の首都基盤作成。

大きな方針は家康が決定するとしても
細かな施策の指示命令となると
二手に分かれる必要がある。

権力基盤の強化としては
まだこの頃、京都に居る方が都合が良かった。
京都の伏見城に拠点を置く。

一方の江戸は、秀忠ともうひとり、家康から全幅の信頼を寄せられている、
本多正信に任せる事になる。

本多正信
本多正信は、徳川四天王のひとり、本多忠勝とは、遠い親戚程度。

幼い頃から家康に仕えていたものの、25歳の時に逃げ出して行方をくらます。
ほぼ20年近くも。
何故か

三河一向一揆。
家康三大危機のひとつ。
まだまだ三河での地盤が完全には固まっていない頃
トラブルが重なり、一向宗の門徒が組織的な反乱を起こす。

家康の家臣にも、一向宗の門徒がいた
さあ、どっちをとる
主君か、門徒としての信仰か

熱心な一向宗の門徒であった本多正信
信仰に決まっとる。
一揆側の司令官として家康と敵対する。

家康は1年ほどで鎮圧。
領内の安定を図るため、寛大な措置を取ろうとする。
一定条件さえ満たせば不問にきしても良いよ。

ところが、その懐柔工作に、首を縦に振らない頑固者がいた。
そう、本多正信。
今さらそんな訳にいくかい。


逃げちゃった。

逃げちゃった、っていうのも面白いね。
それだけ覚悟を決めたくせに。

戻りたいなあ。
良いきっかけがないかなあ。

家康三大危機の最後が起きる。
本能寺の変。
堺にいた家康。
いかん、すぐに三河に帰ろう。
神君伊賀越え。
ここで本多正信が奔走し
無事に帰国できた。

仕事
その後、甲斐の国を監視する奉行として実績をあげたのを皮切りに
次々と成果をあげ、信頼を勝ち取っていく。

そして、秀忠付きの年寄というポジションを任される。
年寄とは、後の老中
江戸は任せたぞ。

とにかく家康とウマがあった。
ツーと言えばカー。
それが逆に周りの反感を買った。

正信も敢えて嫌われ役を買って出たようなところがある。
言いたい事が分かるので
家康の言いにくいであろうことを言ってしまう。

自分が嫌われていることが一番分かっているので
加増を提示されても絶対に受けなかった。
1万石が1万2000石へ
たったそれだけ。

どうも、家康は何かにつけて正信に相談していたので
家康のやってきたことは、かなり正信発案ではないかという話がある。
大阪夏の陣で約束を反故にして内堀を埋めちゃったのも
どうも正信がかんでいる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、いよいよこれからというときに
あっさり引退して、息子、正純(まさずみ)に譲っちゃう。

家康は大阪夏の陣の翌年になくなるんだけど
その50日後に正信も亡くなるんですね。
そんなところまで気が合うんだろうか。

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