敵の西郷どんを神様として祀る?

人生に悩んだら「日本史」に聞こう、シリーズです。

戊辰戦争
幕末の戦争
新政府側は、薩摩藩や長州藩
幕府側は、会津藩や庄内藩

その内の、庄内藩は今の山形県ですが
南洲(なんしゅう)神社という神社があります。
南洲って、西郷隆盛の呼び名なんですよね

いったいぜんたい何でそんな神社があるのか

言うまでもなく、庄内藩は負けた。
でも、三田にあった薩摩藩邸を焼き討ちにしたりして
新政府軍に大きな打撃も与えている

庄内藩主、酒井忠篤(ただずみ)は白装束で
薩摩藩のボス、西郷隆盛に会いに行った
切腹は覚悟での降伏。

だが
平伏した酒井忠篤が顔をあげると
西郷隆盛は穏やかな表情だった

悪かったとお分かりになればそれで結構
切腹して詫びるなんて、とんでもないこと。

あれっ

武器一切の目録を差し出した

貴藩は、北方からのロシアの攻略に対する備えとなる藩です。
この武器は、すべてそのまま保管しておいてください

つい今の今まで敵だったはず

同席していた薩摩藩の高島鞆之助(とものすけ)は

先生の今日の応接は、あまりにご謙遜すぎて
どちらが降伏するのかわからないようでした

戦に負けて降伏するのだから
もしこちらの言葉が激しければ
向こうは思うことも十分に言えないじゃないか

藩に戻った、酒井忠篤はじめ、家臣一同涙を流して喜んだ
藩内沸き返り、この感動が代々語り継がれることになる
そして、酒田の地に、西郷を祀る、南洲神社が作られることになる。

酒井忠篤
素晴らしいですね
西郷どん

この恩は一生忘れちゃいけない
西郷どんに足を向けて寝ちゃだめですよ
ってことですが

ギリギリ、ここまでであれば
全くあり得ないことではないかも知れない

実は続きがある
私はここからが感動した。

恩返し
明治3年、酒井忠篤はある行動を起こします。

70数名の藩士を引き連れて、西郷どんの教えを乞いに薩摩を訪れる。
いろいろ教えてください。

おお、よう来たよう来た

その時、彼らに語った色んなことに関わる考え方
文字に起こして本にします

ここでは本にしただけなんですがね

そのあと、とても不幸で残念な事が起きる
西南戦争
西郷どんが無理矢理、決起はやる若者たちにまつりあげられてしまう

実は、庄内藩からも青年2人が薩摩藩に参戦したりもしています。

結果長く明治政府としては西郷は反逆者

ようやく明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布の特赦により、
西南戦争での西郷の賊名が除かれることになった

そのきっかけで庄内藩がまたまた盛り上がる
作ってあった本に「南洲翁遺訓」と名前をつけ、1千部作ります。

そして、全国を歩き回って配ります。

安易なことじゃ納得できなかったんでしょうね
自分達の頭を使い、手を使い、体を使い、足を使う
あえて大変なことをして
とても長い間ずっと
自分達が南洲翁(西郷どん)の考え方の伝道師になるのだと

ひょっとすると、最初は単に感情的につき動かされて
聞きに行っただけかも知れない
聞き取りをする上で
これはただ者ではない、全国に、そして、後世に広めねばならんとの
思いを強くしたんじゃないかな

西郷どんは、あれだけの人でありながら
生涯ただの一冊も書き物を起こしていません
彼らの行動が無ければ
これほど有名にはなっていないのかも知れませんね

上野公園に西郷隆盛の銅像を建てるべく
発起人の一人として、積極的に動き回ったのも酒井忠篤です

南洲神社では、今でも定期的に西郷どんの教えを学ぶ勉強会が開かれています。

また、山形県鶴岡市と鹿児島市の間には
1969年に兄弟都市の契約が結ばれ
様々な合流が続けられています。

南洲翁遺訓
敬天愛人。 人を敬い人を愛す

常に天を相手にするように心がけよ
天を相手にして自分の誠を尽くし
決して人を咎めるような事をせず
自分の真心の足りないことを反省せよ

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