花火で「たーまやー」

江戸の文化は色々紹介してきました。
今回は花火です。

鉄砲伝来
天文12年(1543年)にポルトガル人が火縄銃を日本に伝えました。
おおーっ、日本史みたい。

ここから、日本の合戦の形態がガラッと変わったのはご存じの通り。

火薬
そのあと、徳川家康のお陰で、泰平の世の中が訪れた。

4代家綱の時、江戸城天守閣の中に火薬が備蓄されていたために
明暦の大火の時、天守閣が爆発して吹っ飛んだ

火薬か
役にも立たんくせに危ないな

思い出した
花火に使える!

徳川家康は慶長18年の8月6日に駿府城で、明人が立てた花火を
尾張、紀伊、水戸の御三家初代藩主とともにこれを見物しています。

このときの花火は今のような打ち上げ花火ではなく、筒から火花が噴き出すタイプ
のものだった。

最初は外国人に頼んで花火を行っていましたが
日本人だって作れるさっ

花火を作るようになり、特に新し物好きの江戸っ子に受けて、江戸で花火が大流行
していく。その人気の高さは「花火の禁止令」 が出るほどだった。

両国の川開き
両国で初の花火があがったのは、享保18年(1733年)
吉宗の時ですね
その年は、大凶作とコレラの流行で全国に多くの死者が出た。
その魂を弔うため、
両国橋のたもとで水神祭が開催され
花火が打ち上げられた。

以来、その花火が江戸中に隅田川の川開きを告げる合図を意味するようになった。

川開きの日に当たる旧暦5/28は、花火の上がらないうちから
両国橋の周辺は船で埋まる。

川辺の料理茶屋では宴会が始まる。

そして、日がとっぷりと暮れると、
両国橋のやや下流に浮かんだ船から
待ちに待った花火が打ち上げられる。

とはいえ、当時の花火は一色だけ
明るいオレンジ色

花火と花火の間も随分空いていた。

あがる流星玉屋が取り持つ縁かいな

間が空きすぎるので
途中の暗がりで、男女の仲が結ばれてしまう。

花火といえば空に打ちあがったときの掛け声ですよね
「たーまやー!」  「かーぎやー!」

鍵屋
鍵屋の始祖である 鍵屋弥兵衛 は大和の国の篠原村 出身で、
江戸に出たのが万治2年(1659年)

売り出した玩具花火が大当たりし、日本橋の
横山町に「鍵屋」を屋号として店を構え、
店は代々受け継がれていった。

大当たりした弥兵衛が考案した玩具花火がどのようなものであったかといえば、
それまでの花火が手筒か、火車 か、ねずみ花火だったのに対し、弥兵衛の花火は
大川(隅田川)などのほとりに生えている
葦(あし)やよしの管の中に星(火薬)を入れたもの

玉屋
玉屋が暖簾を上げたのは文化の頃(1804~1817年)で鍵屋7代目の時代

7代目鍵屋の番頭に清吉という名前の男がいて、
大変な働き者であったため当主から独立のお許しが出る。

その清吉が市兵衛と名乗って始めた店の屋号が「玉屋」

二大花火師
両国の川開きが始まった享保18年は鍵屋6代目の時代
ということは、玉屋はまだ始まっていない

その後、玉屋が両国の吉川町で開業するが、
たちまち鍵屋・玉屋の二大花火師の時代を迎える

両国の川開きは両国橋を挟んで 上流を玉屋、下流を鍵屋 が受け持つ

初日の花火5/28と打ち止めの花火8/28も両者が分けあっていた

ところが
玉屋が、天保14年(1843年)4月17日、
将軍家慶が日光参拝のために江戸を立つという前日に火事を出し、
自分の店のみならず周囲半町ほどの町並みを焼失させる事態を起こした。

当時は、失火は重罪と定められていたため
市兵衛は「闕所」 の上、「江戸お構い(追放)」となってしまう。

玉屋を妬んだ鍵屋が放火したという説や、
玉屋はもともと鍵屋芸者に産ませた子供だという説さえある

玉屋の人気が妬みを買うほど高かったということでしょう。

それ以来、鍵屋だけが請け負うことになるが
掛け声だけは残ったんですね。
 

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