[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼。桜田門外の変1

徳川名参謀シリーズの中の、井伊直弼の最後になります。

桜田門外の変
桜田門外の変には、特別の思い入れがあります。

皇居のウォーキングイベントの時に、みんなで寸劇をやった。
彦根藩上屋敷から出発するところから。
配役決めて、井伊直弼の首がコロンと落ちるところも。
その時の様子はこちら
面白かったなあ。桜田門外の変の寸劇

戊午の密勅で
戊午の密勅が下り、幕府側の視点では前回まででお話ししましたが
水戸側はどうだったのか。

藩主慶篤は江戸の上屋敷小石川にいる
そこへ、朝廷から手紙。
1858年8/16のこと
驚愕かつ狼狽し、沐浴して身を清め、衣服を改め、席を下って恭しく拝受した。
ダメだ、勇気がわかない。
駒込の中屋敷にいる斉昭に許しを得て、恐る恐る開封。
まだ開けてなかったのね。

予想を遥かに超える内容に震えが止まらない。
藩中、狂喜乱舞。

でも、安政の大獄の大嵐が吹き荒れています。
井伊直弼側は、安政の大獄の総仕上げ
戊午の密勅を返還させようとする。

還せ、還さないのやり取りがずっと続く。

気の弱い慶篤を脅しで屈服させる。
ただ、水戸にいる過激派たちはそうはいかない。

9/2頃から江戸へ江戸へと大挙押し寄せてきた。
騒ぎを怖れた藩当局は、現松戸市の辺りに関門を設けて
江戸入りを食い止める。
小金原と呼ばれる広い原っぱに2000人程度が集結。
その後も増え続け、1万人程度にまで膨れ上がる

でも、過激派達にとって、不思議なことが起きた。
信じていた斉昭が止めに入った。

まさか・・・
一旦解散

でも、戊午の密勅関係の人達が
どんどん安政の大獄で処罰されていく。

再度集結。
でも、藩のスタンスは変わらない。
過激派たちが心を決めたのはこの時
仕方ない。藩はもう無理。
脱藩して、藩には迷惑がかからないようにする。

高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介

もはや、他に手段なし。

計画
薩摩藩の過激浪士とも連絡を取り合う。
江戸常駐の浪士は、水戸藩浪士と行動をともにし
残りの薩摩藩のメンバーは同時に京都で事を起こす。
結局京都の方は実現に至らなかったけど
江戸常駐の有村次左衛門は井伊直弼襲撃に唯一加わっている。

藩には、彼らの活動がバレちゃっていて
出頭命令。
バラバラになりながらそれぞれ逃げ回っていた。

「その日」の前日、初めて品川で全員が集まった。
作戦と役割分担を再確認。
金子孫二郎は総監督。
現場には行かず、みんなからの報告を待つ。
現場での総指揮は関鉄之介。
現場に行くのは18名。
ちなみに高橋多一郎は、京都の方に行っています。

傷をおったものは、自害、ないしは閣老へ自訴
無傷であれば、次なる計画京都への応援に向かう。

当日朝は、怪しまれないよう、バラバラに出発し
愛宕山で集合。
そこから、桜田門へ向かう。

雛祭り
選んだ日は、1860年3月3日。上巳の節句(雛祭り)

この日は、参勤交代で江戸にいる全ての大名が
江戸城に挨拶に行く。

井伊直弼が通るルートも時間も分かっている。

3/3は旧暦なので、今で言うと3/24
完全に春なんだけど
異常気象。
雪が積もった。
何かを暗示しているように。

どーんどーん

登城を知らせる太鼓が鳴り響く
この後は次回ね

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