[ことば日本史] 関西は無かった

後鳥羽上皇は、承久の変の敗戦が決まった日、
北条義時追討の宣旨・院宣を取り消して、
この戦の責任は謀臣にあって自分にはないのだと、泰時に申し入れた。

しかし義時の処断はきびしく、
後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐に配流された。
そして仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て、その父後高倉院の院政とした。

また乱の首謀者と目された院の近臣たちは、
ことごとく捕らえられ、関東に護送される途中で斬殺され、
在京御家人たちは六波羅によって斬られた。

そうした人々の所領は幕府に没収され、おもに東国出身の御家人がその地の地頭とされた

京都に進軍した泰時や時房は、そのまま六波羅にとどまって、
朝廷の監視や洛中警固、西国御家人の統制などに携わることになった。
これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の創設につながる。

乱後のこうした処置によって幕府は、西国に対して、
より深く権力を浸透させることができた。
ここに朝廷と拮抗する東の王権としての鎌倉幕府が成立する

それまでも、関より東の意味「関東」という言葉はあった
「関東」は京都が中心だった朝廷からすると、若干上から目線の使われ方だった
「関西」という言葉はありませんでした
あくまで京都から見てどっち方向かしかなかった訳です

このあと、言葉は同じ「関東」が東国の王権が自らの呼称として常用し
鎌倉に視点をすえて、京都をふくむ西国を「関西」と呼ぶことになるのです

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[ことば日本史]錦の御旗。負けちゃったのに

ことば日本史シリーズ
今回から鎌倉時代に入ってまいります

平清盛を倒した源頼朝は鎌倉に幕府を開く

だが後鳥羽上皇は、政権を奪い返すチャンスをうかがっていた。

承久元年(一二一九) 一月、三代将軍、源実朝が暗殺される。
公家文化に親しみ、武家と公家とのパイプ役となっていた実朝の死は、両者の溝を深める。

源氏の将軍が絶えたことによる動揺は、後鳥羽上皇にとって、待っていたチャンスと見えた。

決戦のときがきた。

錦の御旗(にしきのみはた)
承久3(1221)年5月14日、
後鳥羽上皇は、流鏑馬ぞろえと称して、鳥羽城南寺に畿内近国の兵千七百余を集めた

翌日、義時を追討し、全国の守護地頭を院庁の統制下に置くという院宣を発する。

この召集に応じなかった京都守護、伊賀光季を襲わせて挙兵の血祭にあげた。

鎌倉では、北条政子が御家人の結束を訴え、
北条泰時時房を大将軍とする東海道軍十万余騎に東山道、北陸道、
あわせて十九万という大軍勢以東十五カ国の武士で編制し、直ちに西上させた。

これに対して上皇軍は、総数二万数千と称したが、
それさえ、寄せ集め
集団統率された軍団とはいえなかった。

「承久記」によれば、このとき後鳥羽上皇は、
十人の大将に「錦御旗」を賜って官軍の標とした

これが、史実として確認できるものでは最古の「錦」だという。

だが、後鳥羽上皇は、公家勢力全体の合意をとりつけていなかったし、
上皇軍は実戦にはまるで対応できていなかったので開戦から1ヶ月にして敗退した。

このときは錦の御旗を掲げた側が負けてしまったわけだから、
まだ今日いうような慣用句として「錦の御旗」ということはなかった。

「錦の御旗」
勝てば官軍
ではなく
「負けちゃったけど官軍」だった訳です

錦の御旗を掲げることが正統性の証明となったことは、
南北朝時代にはうかがわれるそうだが、
庶民にとっても馴染みのあるものになったのは、やはり明治維新
出たっ

鳥羽伏見の戦いでは
勝てそうだった幕府軍
徳川慶喜は新政府側に掲げられた「錦の御旗」を見るや
逃げて江戸まで帰っちゃった

戦わずして、勝負あり
絶大なる「錦の御旗」の効果

品川弥二郎の「トコトンヤレ節」を歌いながら
新政府はゆっくり江戸に向かう

宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよ との錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

組織のトップや公権力からの認定、 正義や平和などの理念を、
正統性の証明として利用して行動することに
「錦の御旗」という言葉を使うようになったのは、それ以降のことだろう。

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[ことば日本史] 判官びいき

源義経は、法華経を読みおえると、北の方(妻)の親である兼房にいった。
「どうやら、自害すべきときがきたようだ。自害とは、どのようにすべきものなのか」

「都で佐藤兵衛が自害したときには、評判が高く後々までめられておりましたな」

「ああ、それなら、わけはない。きず口が広いのがよいということだな」

義経は、幼い頃から守り刀として差してきた名刀を握り、
左の乳の下から、背中までも
突き通れとばかりに突きたて、
刀をまわして口を掻き破り、存分にはらわたを抉り出してから、
刀を服の袖でぬぐい、膝の下にかくして、脇息にもたれた。

それから北の方を呼んで、故郷へ帰るように告げた。
だが北の方は、自害を望み、養父としての情に断る兼房に無理やり、刀を立てさせた。

そこへ五つになった若君がやってきて、両親が死出の山を越えて黄泉へ行ったと聞くと、
わけもわからぬまま、自分も死出の山へ連れてゆけとせがむ。

いかんともしがたく兼房は、刺した。

そして、まだ生後七日の姫君も、刺した。

若君の亡骸を義経の衣の下に。
姫君の亡骸を母の衣の下に。

このとき義経には、まだ息があり意識が戻った。

「北の方はどうした」

「自害されました。お側におられます」

「これは誰だ」
手探りして尋ねた。

「若君でございます」

義経は、北の方へと手をのばし、すがりついた。
これが最期の言葉だった。

「はやく屋敷に火をかける。敵が近づくぞ」

皆を見送った兼房は、走り回って屋敷に火をかけた。
ごうごうと燃え上がる火炎にむせびながら、兼房は最期のひと暴れとばかり、
油断していた敵を一人、馬からひきずり下ろし、脇にはさみこんだ。

「一人で越えねばならぬ死出の山だが、供をしてくれ」

道連れを抱えたまま、炎のなかへと飛び込んでいった。

平家との戦いでは大活躍したにもかかわらず、
頼朝に追われて衣川に非業の死をとげた義経は、
同情を誘う悲劇のヒーローである。

義経は、検非違使の時、すなわち「判官(ほうがん はんがん)」と
呼ばれる位にあったことから、義経に対する同情、

ひいては立場の弱い者に味方する心情は、
「判官びいき」と呼ばれるようになった。

このような弱さに対する偏愛は、日本人の一種の美意識。
あるなあ。

弱いものに対して、頑張れ、っていうのは自然に生まれてくる感情なので
実は世界共通のものらしいけど
ことばの影響って大きいですね

「判官びいき」ということばが存在するがゆえ
そしてそれが日本人に共通しているのだというイメージは
やはり、自分の感情を納得させやすいので
結果として、日本人にその傾向が強くなっていると思う。

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[ことば日本史]立ち往生

「ことば日本史」平安時代から

立ち往生
壇の浦の合戦で平氏を滅ぼした源義経
意気揚々のはずだった

ところが、兄、頼朝の怒りをかい、今度は追われる身となってしまった。
追跡を逃れての旅路のはてに、奥州藤原秀衡(ひでひら)のもとをたよる

わしに任せておけ

ところが秀衡が亡くなると、息子の泰衡(やすひら)は頼朝を恐れる
父さんとの約束なんて知りませーん

ついに義経のいる衣川の館を攻める。

襲撃を受けて、義経の郎党らは奮戦するも、次々と討ち死にしてゆく。

まだ彼がいる!
武蔵坊弁慶

最期までを義経守るべく、敵に包囲されながらも、
なお縦横無尽に敵を斬り、突き、刎ね、狂ったように暴れまわった。

正面から弁慶と戦える者は誰もいなかった

弁慶には無数の矢が立っていたが、折り曲げ折り曲げするうちに、
まるで色とりどりの簑をまとっているかのよう

みな討ち死にしたというのに、この法師だけは、どんなに矢を受けても死なないとは
なぜだ、なぜなんだ

とうとう怖くなった敵どもが神に折りだした頃、
弁慶は薙刀を地に突き、敵をにらみながら仁王立ちに突っ立った。

そして一声、笑った。

おおっ、恐ろしや
化けもんじゃあ
ただごとじゃない。近づくな

ただ、動きはしない。
どういうことだ

ひょっとして

一人の若武者が、かろうじて馬でそばを駆け抜けてみたところ、
馬にぶつかって、弁慶が倒れた。

死んでいた

でもなお、まだ戦わんとの形相
恐る恐る近づく

このすさまじく勇壮なる死にざまが「立ち往生」

でも不思議ですね
身動きとれずにあたふた、みたいな使い方します
弁慶に申し訳ない

武蔵坊弁慶
どうも存在自体怪しいらしい
物語の中で、伝説がどんどん膨らんでいき
超人気者に

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