本屋の一日ってこんな仕事

本屋に特徴的な仕事をまとめてみました

抜きと開け
これが、本屋全般において行われている仕事なのかは分かっていません。

午後、ピークが過ぎ、店を占める時間が近づいてくると
まず、抜きという作業をします。

抜き
対象になるのは、雑誌のコーナーです。
雑誌のコーナーから返品する雑誌を抜き取る作業です。
リストは、明日来る雑誌。

例えば、週刊誌だとすると
水曜日発売であれば、火曜の晩に抜きます。
月刊誌だとすると、10日発売だとすると、9日晩には抜きます。

大変なのがムックです。
ムックはbookとMagagineのあいの子で、雑誌のコーナーにおいてあります。
雑誌と違い、同じものが順繰りで来るわけではなく
本のように一回きり。
でも本よりは、寿命が短いから、早く返したい。
例えば、2ヶ月とか決めて、過ぎれば返すのですが
立てかけてあるので、一冊一冊抜き取って、出版日を見ないといけません。
入れ替わりが激しいので、単品管理もしていません。
毎日全部は見ていられないので
今日はこのコーナーみたいに、順に少しずつやっていきます。

開け
開けは抜きのあとでやる作業です。
抜きをやると雑誌コーナーが乱れます。
開けは、翌日ドドーンと送られてくる雑誌を朝オープンの時間までに
揃えきれるように
抜いたあとの空きスペースをずらして固め、それぞれ、
各コーナーの4分の1くらいのスペースを完全に開けちゃう作業です。
これを素早く綺麗にやるためには、若干の熟練とセンスが必要です。

その後
その後は、抜いた雑誌を返品する本と共に箱詰めして伝票を貼ったりの返品の準備です。

翌日は届いた本屋雑誌を、それぞれの場所にどんどん置いていきます。

レジ
やっぱり、日中の作業で一番メインなのはレジ打ちですね
お客様がレジに来られたら
ありがとうございます。
と言って
本からスリップを抜き取って、レジをピッピッ

スリップって分かります?
本の途中に挟まっている紙で、
本の名前が書いてあって上からシュッととるやつ

これなんだろうと思ったことありません?

クイズです。
あのスリップって何のためにあるでしょう。

答えは最後でね。

包装
レジは基本的には、ひたすらこなす、って感じなんですが
来ちゃったよ、ってのが包装。

本って、意外にギフト用途がある。

贈り物用に包装してもらっていいですか

はい。と、ニコニコ
心の中では、あっちゃー。

インターネットで、包装の仕方みたいなのを見て
頑張って練習するんだけど、
あんまりうまくならなかったなあ

長女は、別の本屋でバイトしたことあるんだけど
その時は家で一生懸命練習してたなあ。
本に限らず、そこいらのもん、何でもかんでも包装しちゃう。

あれ? あれどこ行った? て事があると
だいたい、包装されてどっかに転がっている。

全部破って開いてみないといけないから

頼むから、自分の本だけにして!

答え
スリップは何の意味もありません。
すみません、しょうもない答えで。

単純に言うと昔の名残り。
コンピュータ化が進んでいないときは、あれで発注していたと思います。

ですから、今はあれは意味がない。
普通は、シュッと抜き取りますが
最悪抜き取り忘れてもどうっちゅうことはありません。

正確に言うと、
実は一部の例外を除いては、という事になります。

ごく一部の出版社は、うちの会社の本のスリップを集めてもらったら
百枚につきこんな特典を差し上げます。
みたいなセールをやることがあります。
大した特典ではないので無視してもいいくらいなんですが
本屋の店長によっては一生懸命集めている人もいるかもしれません。

うちも集めてはいたんですが
数を数えたり輪ゴムがめんどくさい割には大した特典にはなりません。
何かになった記憶が結局ありませんので。

4代、家綱は偉大なる左様せい様

今日は、第4代 家綱公です。

好き嫌いで言うと、この家綱公が一番好きかも。

トップのスタイル
トップのスタイルとしては2タイプあるのかなと思っています。

いわゆるリーダーシップが強くあって、
自分でどんどん決めて、グイグイ引っ張っていくタイプ
ディレクターなのかな

逆に、自分では手を下さず
みんなをうまく使って盛り上げていくタイプ
プロデューサーなのかな

もちろん、両方の要素を持っているというのが多くて
特に優れたリーダーになると、両方をうまく使うってことになるので
どっちかって言うと、どちらの要素が強いというぐらいなんでしょうけど。

自分はというと、実際にはディレクター型が強いけど
常にプロデューサー型であろうと思っています。
ややこしいですね

今はリーダーでも何でもないのでどっちでもないんですが
以前はね。

家綱は最も優れたプロデューサーなんじゃないかなと思う。

首相で言うと小渕さんみたいな感じ。
最初はこの人大丈夫? とか思ったけど、
みんなをうまく活かしたって印象がある

左様せい様
わずか11歳で将軍になる
生後4ヶ月で脳膜炎にかかったことがあり、
脳に障害があったのではないかとされています

という事なので、自分で何かを決めるという事ができない。
いつも「さようせい」
左様せい様と言われていた。

江戸時代って、右腕左腕がかなり活躍する時代ですよね。
もちろんその特徴が顕著な時期とそうじゃない時期があるわけだけど
たまたまその時に優れた補佐役がいたかどうかというより
そういった人を活かす資質がリーダー側にあったかどうかの方が大きい気がする。

家綱は、その意味で一番優れている気がする。

補佐した人
大きく前半後半に分かれます。

【前半】
4人体制
おじさんの保科正之をはじめとし
酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋

【後半】
他の3人が死去したり引退したりで、大老、酒井忠清の専制政治に近くなる

気持ち
側近を活かすことができたのも、人柄とか基本的な姿勢とかが良かったからでしょう。

中国の君子の心得を書いた『貞観政要』(じょうがんせいよう)を好んで、
細かいところまでよく記憶していたという。
何をやるべきかは分からないにしても、
やってはいけないことは貞観政要から引用し、
これはやらない、と言っていたらしい。

単純なあほではない。

幼少期、江戸城天守閣へ登った際に近習の者が遠眼鏡を勧めたが「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は嫌な思いをする」と遠眼鏡を拒否。

遠島となった罪人の話を聞き、「彼らは何を食べているのだろう」尋ねたが誰も答えられなかった。
「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」
それ以降、流人に食料を与えるようになったという。

食事していたとき、汁物に髪の毛が入っていた。
家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、
小姓が慌てて新しい物と交換しようとした。
「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」
普段のおかわりと同じ様に扱い、咎められる者が出ないように配慮

細かいことはかなりの癇癪持ちで
周りの人間をよく叱りつけていたそうだが
それについても自分で分かっていて
反省している文も残っていたりする

時代
かなり大変な時代だった
クーデターであり同時多発テロである由比正雪の乱が起きる
そして、あの明暦の大火
江戸城の天守閣が焼け落ち、江戸の街も焼け野原になる。
こんな大変な時期を乗り切り、
結局、30年も続くことになる

やった事
末期養子の禁令の緩和や殉死の禁令
大きく、武断政治から文治政治へ転換していく。

もはや戦国時代ではない
ってこと

世継ぎ
残念ながら世継ぎに恵まれなかった。
とうとう、子へ子へと受け継がれていった、嫡流の時代がここで途絶えてしまう。

さあどうするか。

仕方ないので子ではなく兄弟。
その時生きていたのは弟の四男綱吉。

すんなり綱吉にといきそうなもんですが
酒井忠勝は綱吉が嫌いだった。
すごいこと考えます。

宮家から養子をもらおう。
有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)

これがもし実現していたら、
将軍家が天皇家に取って代わられていたわけですね。
公武合体どころではない。
公武入替。

これが情熱の鎌倉古道か

ウォーキング同好会のイベント、鎌倉街道に参加しました。

古道研究家、宮田太郎先生をお招きし、詳しく詳しく説明して頂きました。

以前コラムでも書きましたが、いよいよ昨日が本番だったわけです。

関心しっぱなし
圧倒されっぱなしの一日でした。

昔の道を見つける。
言ってしまえばそれだけの事がここまで面白いことなのか

は行の感嘆詞が連続して口をついて出る。

はーーっ
へーーっ
ほーーっ
それぞれ30回は言ったと思う。

鎌倉古道
集合は、小田急線鶴川駅。
バスで別所というバス停まで移動。

ざっとした説明の後、緑豊かな丘陵の中へ

なんかそれっぽい所で立ち止まる

今日は、道がそれぞれいつのの時代にできたか見分ける方法を習得して頂きます。
ここは、こういうふうに横の土が崩れていってますね
こういうのは、明治か昭和の時代に農業用に作られた道なんです。
へーーっ

来たぞ。
配られた地図だとこの辺か
どーんと切通が広がる

地層が見えるところに集まって

この色を覚えてください。
この色は縄文時代です。
その上のこれ。
この硬さのこの色のこの地層が横に筋になっていますね。
これこそが、鎌倉古道の跡です。

皆さんが歩いてこられたところ
これはあとから作られた道で、鎌倉時代のものではありません
先ほどの地層から、こんな感じでつながって、
はい、皆さん、こちらの上まで上がってきてください。
これこそが鎌倉古道です。

みんなが口々に
ほーーっ

目の前に今まさに、鎌倉古道がまっすぐに伸びていった。

それから
それから先は、もうめくるめく世界。

この道は新選組の近藤勇が合計36回通り、土方歳三が11回、沖田総司が12回通りました。

はーーっ

沖田総司は、大変几帳面な性格で
朝起きたら必ず掃除をしていたんですね
へーーっ
間違えた。
ここは笑う所だ

この道は、徳川家康の遺骨を駿府から日光東照宮まで運ぶとき
1300人もの大行列が通ったところなんです。
この先の神社の横で
けっこう長い間休んだんです。
なぜなら、牛車の車輪が壊れて、それを近くの鍛冶屋を呼んできて
直すまでの間、ぼーっとしてたから

この場所のすごいところは
鎌倉時代、江戸時代、もっと前の古代と、色んな時代の道が色々存在することです。

色んな話をし出すとキリがないのでこの辺にしておきますが
すごいなあと思ったのが
この辺は、さっき見たところとおんなじような感じでしょう
というところが一切無かったこと。
すべての場所が新しい場所の発見

とにかく先生の話し方がジョークを交えつつ
グイグイ引き込んでいくし
コースの組み方が上手いんでしょうね。

この先がすごいんですよ
でも、今日は時間の関係で割愛します
というのがあちこちであって

ちょっとちょっとちょっとーっ

今日はよく皆さん歩かれましたね
もうちょっとで終わりますからね

みんなが
ええーっ?
もう?

もう一周しましょうよって感じ。

宮田先生という人
お地蔵さんの説明の時です。

さっきあったお地蔵さんは立ってましたでしょう。
あれは旅人に対してのお地蔵さん。
こちらは座ってますでしょう
これは、近くに寺があるという事。
でも見てきた2つの寺の跡とも遠いですよね。
不思議だなあ、と思って調べたんです。
そうするとね。
この近くにも、尼寺があったことが分かったんです。

そんなこと、どこかに文書で本当に残っていたのかな。
とても、引っかかりましたので質問しました。

先生、先程から、調べたんですって何回か言われてますけど
いったいどうやって調べるんですか

それは、聞き取り調査です。
ノートを持って、村の長老のところを何人も何回も通いましてね
ダーッと速記して行くんです。
繋ぎあわせて確証を得ていく
大学ノートがこんなになります。

また、別の説明の所で

私は聖績桜ヶ丘の出身でしてね。
近くの多摩ニュータウンで大規模開発が行われ
貴重なものがどんどん潰されていくのを見て
涙が止まらなかったんです。

オーバーな表現ではないと思いました。
この人なら、本当に大粒の涙を流しただろう。

本物だ。
数少ない、情熱だけで生きている人間だ。
目の前にいる、この人。

出会えて嬉しい楽しい人っていっぱいいる

でも、ひとランク上の
何かにつけて何度も思い出すであろう、宝物の経験を提供してくれた人

今日の出会いに感謝します。

安倍仲麻呂、天の原〜

今回の百人一首は、安倍仲麻呂(あべのなかまろ)です

天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に いでし月かも

広々として、はてしなき大空をふり仰いで見ると
月が美しくのぼっている。
ああ、あの月は、私が故郷で見た、
春日の三笠の山に出た月と同じものなのだなあ。

解説
安倍仲麻呂は遣唐使で中国に渡りました。
遣唐使のメンバーに選ばれた訳ですから、かなりのエリートです。
最澄や空海もそうでしたね。
とは言え、当時の航海技術では、命がけの事だったようです。
そして、この安倍仲麻呂
行くには行けたが帰ってこれなかったんです。

そんな、安倍仲麻呂にとって、春日や三笠山というのは
特別の意味のある地名です。
春日は自分のふるさと。奈良県奈良市の春日大社のある場所です。
そして、三笠山は旅の無事を祈願した場所

となると、
ああ、帰れない、哀しい
って歌かなと思いきや、そうではない。
この歌が詠まれた時期です。

仲麻呂が唐で30年もの長き時を過ごし、
ようやく帰国が決まった時
あるいは、帰国途中の船の上と言われています。

喜びの歌です。
もうすぐ、帰国して三笠山であの月を見れるのだなあ。

いでしのしは、体験的回想を表すんですって
ああ、30年もの長い間よく頑張ったなあ
でもその苦労も報われるんだなあ

長い時間を今につなげるもの
し、の一文字で長い時間への思いを表してるって言うんですから
和歌ってほんとにすごいですね

ところが
船が遭難しかけ
やむなく、唐に引き返す。
そして、最後まで帰れることなく、唐で一生を過ごす。

この事実を知ってから、もう一度読み返してみると
哀しみの歌と思いつつ感じるより
喜びの歌のはずだったのにと、哀しさが押し寄せる。
この歌を百人一首に選んだ、藤原定家こそが
一番すごいなと思うんですけど、どうでしょう。

後日談
ただ、本人に聞いてみないと分からないんですが
引き返したのが、50歳の時
その後、唐の高級官僚として、要職を歴任し
なんと72歳まで生きたらしい。

異国の地では大成功。
どうだったんでしょうかね
結局は幸せだったと思いながら人生を全うしたのかな