4代、家綱は偉大なる左様せい様

今日は、第4代 家綱公です。

好き嫌いで言うと、この家綱公が一番好きかも。

トップのスタイル
トップのスタイルとしては2タイプあるのかなと思っています。

いわゆるリーダーシップが強くあって、
自分でどんどん決めて、グイグイ引っ張っていくタイプ
ディレクターなのかな

逆に、自分では手を下さず
みんなをうまく使って盛り上げていくタイプ
プロデューサーなのかな

もちろん、両方の要素を持っているというのが多くて
特に優れたリーダーになると、両方をうまく使うってことになるので
どっちかって言うと、どちらの要素が強いというぐらいなんでしょうけど。

自分はというと、実際にはディレクター型が強いけど
常にプロデューサー型であろうと思っています。
ややこしいですね

今はリーダーでも何でもないのでどっちでもないんですが
以前はね。

家綱は最も優れたプロデューサーなんじゃないかなと思う。

首相で言うと小渕さんみたいな感じ。
最初はこの人大丈夫? とか思ったけど、
みんなをうまく活かしたって印象がある

左様せい様
わずか11歳で将軍になる
生後4ヶ月で脳膜炎にかかったことがあり、
脳に障害があったのではないかとされています

という事なので、自分で何かを決めるという事ができない。
いつも「さようせい」
左様せい様と言われていた。

江戸時代って、右腕左腕がかなり活躍する時代ですよね。
もちろんその特徴が顕著な時期とそうじゃない時期があるわけだけど
たまたまその時に優れた補佐役がいたかどうかというより
そういった人を活かす資質がリーダー側にあったかどうかの方が大きい気がする。

家綱は、その意味で一番優れている気がする。

補佐した人
大きく前半後半に分かれます。

【前半】
4人体制
おじさんの保科正之をはじめとし
酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋

【後半】
他の3人が死去したり引退したりで、大老、酒井忠清の専制政治に近くなる

気持ち
側近を活かすことができたのも、人柄とか基本的な姿勢とかが良かったからでしょう。

中国の君子の心得を書いた『貞観政要』(じょうがんせいよう)を好んで、
細かいところまでよく記憶していたという。
何をやるべきかは分からないにしても、
やってはいけないことは貞観政要から引用し、
これはやらない、と言っていたらしい。

単純なあほではない。

幼少期、江戸城天守閣へ登った際に近習の者が遠眼鏡を勧めたが「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は嫌な思いをする」と遠眼鏡を拒否。

遠島となった罪人の話を聞き、「彼らは何を食べているのだろう」尋ねたが誰も答えられなかった。
「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」
それ以降、流人に食料を与えるようになったという。

食事していたとき、汁物に髪の毛が入っていた。
家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、
小姓が慌てて新しい物と交換しようとした。
「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」
普段のおかわりと同じ様に扱い、咎められる者が出ないように配慮

細かいことはかなりの癇癪持ちで
周りの人間をよく叱りつけていたそうだが
それについても自分で分かっていて
反省している文も残っていたりする

時代
かなり大変な時代だった
クーデターであり同時多発テロである由比正雪の乱が起きる
そして、あの明暦の大火
江戸城の天守閣が焼け落ち、江戸の街も焼け野原になる。
こんな大変な時期を乗り切り、
結局、30年も続くことになる

やった事
末期養子の禁令の緩和や殉死の禁令
大きく、武断政治から文治政治へ転換していく。

もはや戦国時代ではない
ってこと

世継ぎ
残念ながら世継ぎに恵まれなかった。
とうとう、子へ子へと受け継がれていった、嫡流の時代がここで途絶えてしまう。

さあどうするか。

仕方ないので子ではなく兄弟。
その時生きていたのは弟の四男綱吉。

すんなり綱吉にといきそうなもんですが
酒井忠勝は綱吉が嫌いだった。
すごいこと考えます。

宮家から養子をもらおう。
有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)

これがもし実現していたら、
将軍家が天皇家に取って代わられていたわけですね。
公武合体どころではない。
公武入替。

4代、家綱は偉大なる左様せい様」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: [徳川名参謀]4 家綱→保科正之 | でーこんのあちこちコラム

  2. ピンバック: [徳川名参謀]4 家綱→酒井忠清、下馬将軍の汚名返上。 | でーこんのあちこちコラム

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