高橋さんや橋本さん。橋のたもとの…じゃないんだなあ

名字シリーズ。

橋がつく名字を見てみましょう。

ああ、それ簡単
橋が近くに有ったんでしょう
って
違うんだなあ、それが

橋って
橋ってあの橋だと思いますよね
永代橋のようなBridge。

それもあるにはあるので、一概に間違いとは言えない。
どっちかというと、と言えば、その橋ではない。

梯子(はしご)のはし。
Bridge の橋はかなりの高等建築物。
もし、あの橋を指すなら
大分後になってからの名字ということになる。

あの橋が一般的になる前に
はしと発音するものは
梯子で
神様のところに上っていくもの、という意味がある。

高橋さん
高橋さんは特にBridgeの橋とはほとんど関係無い。

ルーツはなんと日本書紀のに登場する、
高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)
ないしは
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
にまでさかのぼる。

酒造りの神様だったり、料理や味噌・醤油などの醸造の神様だったりする。
平安時代に宮中で天皇の毎日の食事を調える内膳司(ないぜんのつかさ)という仕事をしていた人が、天皇から高橋朝臣(たかはしのあそん)の姓を賜った。
この人が先ほどの神様の子孫。
一貫して、神様に捧げる食事のスペシャリスト。

大昔、神様の食事や酒を用意する人は
神殿にハシゴをかけて登り捧げた。

すなわち、高橋さんのハシとは
きざはしと呼ばれた階段状の高梯子、
もしくは、神が宿る高柱のこと。

天皇の料理番みたいな内膳司が
全国から美味しい食材を調達するため
全国に散らばり
次第にその土地に定着していくものがでてきたと考えられる。

橋本さん
高橋さんに比べると、橋本さんの方は、そこまでルーツがはっきりしていない。
梯子を意味して、神職の事もあれば
Bridgeの橋の事もある。

Bridgeの橋の場合は、
古代においてはかなり珍しい、超最新の建造物であるので
大都会だったと思われます。
当時はかなりの都会っこだったと思われます。

やるぜ、橋本さん。ハイカラっ。

江戸時代は農民含めそこそこ裕福だった。

大江戸開府四百年、という本、とても魅力的かつ感動的な本でした。

行政側の人数は極端に少なく、ほとんど庶民が自主的に運営していたこと。
権あるものは禄少なく、という基本方針
など、
知らなかった江戸時代の基本的なベースとなっている、考え方や事実や習慣。
勘違いしていたというより、考えてもいなかった事ばかりなんだけど
全くイメージしていなくて、びっくり、という事ばかりでした。

今回は人々の裕福さです。

そこそこ裕福
先に文明開花に興味を持って、文明開花大好きってなった私としては
江戸時代を深く調べていく前は、
どうしてもビンボーイメージしかありませんでした。

鎖国方針をとっちゃったがゆえに、
世界から大きく取り残された日本。
庶民はキツキツカツカツで暮らしていて
明治維新で欧米文化に触れ、一気に豊かな生活を手に入れた。

そう思っていましたが、どうも違うようです。

はっきりいって、貧乏なのはむしろ武士だけで
農工商はそこそこ裕福でした。

市民革命ではない
よく考えると、日本は世界の歴史で通る道、市民革命を経験していません。
為政者が自分達の利益に走り、市民から搾取する
市民は怒りが頂点に達して革命を起こす
というパターンを経験していない。

明治維新はあくまでも外圧。
開国シナサーイ、と言われて
えらいこっちゃ、と世の中がパニクって
すったもんだあって、開国したわけで
きっかけは庶民の不満の爆発ではない。

ついでに言うと、為政者が庶民に対して虐殺を行ったという歴史も経ていない。

大きく言うと、政府と庶民はうまくやっていた。

太閤検地
時代は、秀吉の行った太閤検地まで遡ります。
秀吉は新田を開発すれば、農民の耕作権を認めますよ、
という大方向転換を行った。
農民はやる気満々。

その時、土地を調べて、
お宅はこれ位だから
権利は認めるけど、年貢はちゃんと払ってね

その年貢の割合は、40%~50%

こう書けば、すっごい、重税のような気がしますよね。
ところが、江戸時代になってどんどん状況が変わってくる。

江戸時代にさらに新田の開発が進んでいく。
江戸後期にもなると、前期のほぼ倍にまで広がります。

ところが、いい加減なもので、太閤検地はほとんど改訂されていない。
すなわち、広げたところはまるまる年貢を払わなくて良い。

次に生産効率。
かなり農器具が開発されていく。
どんどん生産効率がアップしていくのに
太閤検地の時の、これくらいの広さだからこれくらいとれる筈という基準のまま。
そうなると、農民も真剣。
農書という参考書を読んで、効率アップの方法を勉強していく。

正確に言うと寺子屋は武士だけなので、
それ以外は手習いと言うんだけど
農民も自分の子供を金を払って
そういう塾に行かせて勉強させる。
ほぼ100%に近い。
そうやって、みんなが農書を読め、
またもっと良いやり方の農書を書いて
それが売れる。
義務教育じゃないのに
ほぼ100%手習いに行かせるという事自体
どれだけ裕福だったかの証明になりますね。
おかげで何と識字率は85%
置いてきぼりをくらっている筈の西洋の先進諸国のどこよりも
圧倒的に高い。

さらに、作物。
稲ばかりを作っているわけではない。
江戸の町がどんどん裕福になるので、
いろんな食べ物を食べたがる。
稲より高く売れる野菜等の作物
あるいは、蚕を飼って、絹を作ったりするとかなりの高い金額で売れる。
年貢の対象外。

極めつけが農業以外。
農民は教育が行き届いて頭が良くなっているから
もっと色んなことが出来る。
兼業農家でガンガン稼ぐ。
例えば、豆を作ったら、加工して豆腐まで作っちゃうと
もっと高く売れる。
農と工商の境なんてないに等しい。
当然年貢の対象外。

どう計るかの基準が難しいけど
本では年貢の負担割合は10%から20%くらいじゃないかと。
平均なので、もっと頭の良い人は10%に満たないよって人もいたでしょう。

取り立てる側は事情が分かってなくて
生かさず殺さずみたいなことをいつまでも思っていて
そういう書類は残っているんだけど
あくまでも公式のもの

農民側は、
今日明日食べるのもやっとでございます。
といっておいて
外に一歩出れば、舌をペロッと出すんでしょうね。

一揆
じゃあ、一揆って何なんでしょう。
飢饉とかが何回か起きて、一揆とか打ち壊しとかが起きる。
これって、不満の爆発ではないのか。

結論的に言うと、確かにそう。
ただ、それは例外。
260年の長い江戸時代の中で、
ほんの数回起きている例外ケース。
あくまでも、原則の方は上で述べた総じて裕福って方。
もちろん個人的には例外もあって、貧乏な人はいて
今のマスコミ同様、例外的な方がむしろ取り上げられやすくて
記録に残るんだけど、
その辺注意して、全体的一般的な物事の見方をしないと間違っちゃう。

江戸時代は今と比べて平均気温が低い。
隅田川に氷が張るほど。
いくら生産効率が上がっていても
気象の大きな変化には影響を受けやすかった。

飢饉がある程度の周期でやって来たことは事実です。
そんなときに、一揆や打ち壊しは起きていますが
田沼意次の時にもお話ししましたが
為政者に対する不満爆発ではなく、
米の買い占めをした一部の店に対する抗議なので
礼儀正しく打ち壊しがされている。

長くなりましたので、続きはまた次回に

索引はこちら
[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

IT業界、ちょっと落ち着いて

前々回、IT業界に出戻りした頃の事を書きました。

そして、前回はIT業界の特色の紹介。

今回は、その続きに入っていきます。

大きく分けると
大きく分けると
1.ハッタリ期
2.ひたすら期
3.ノンプログラミング期
4.別の価値観へ
と、4つくらいに分かれるかも。

ひたすら期
ハッタリ期はお話ししましたね。
意外に早く、ハッタリ期は過ぎていきました。

気がつくと、何だかついていけてるなあ。

とはいえ、まだまだ安定とまではいきません。

前回お話しした、派遣の身な訳で
ひとつの現場が終われば、又次の現場が決まるまで、面談を何回もやります。
履歴書は必要ないんですが、
この業界特有の、スキルシートなるものがあります。
一般的な職務経歴書の範疇。
どういうプロジェクトをいつからいつまで経験して
言語は何でとか。

ごめんなさい、いきなり専門用語入れちゃった。

コンピュータって何にも指示しないのに勝手に考えちゃうって
まだそこまでいってないので、
あれせいこれせいって人間が指示しなきゃダメ。

でも、ここのボタンをクリックした後は、
これとこれをこういう順番でやりなさいって
手順を教えておけば、ボタンを押しただけで
毎回、おんなじようにやってくれる。
真面目なんだね。

その手順はプログラミングって言うんだけど
花柳流みたいに流派がある

どこも、うちのやり方が良いよって自己主張するので
一つにまとまらない訳。
それを、言語って言ってます。
大阪弁と東北弁みたい。

c
ところで、言語の名前で粋だなあと思っているのがあります。
c という言語
最初大学の仲間内だけで自分達がつかうためだけの言語として生まれます。
言語の名前はついてません。
その内、大きくバージョンアップ。
そうすると、前のと比べて説明する必要が出てきた。
前のを仮にaだとすると、今度のbでは、みたいに説明。
そして、もう一回大幅バージョンアップ

そろそろ名前ぐらいつけようよ
って誰かが言ったと思うけど
いいじゃん、cって呼べば。
いよっ、粋! やるね、アメリカ人。

ところで、彼らの手を離れて世に出たc
また、誰かの手によって大幅バージョンアップ
今度はdにと思いきや
c+ (シープラス あるいは略してシープラ)

そして、もう一回大幅バージョンアップ。
今度は?

c++ (シープラプラ)

みんなcが好きなんだね。

そして、今度はc++とは違う考え方で
違った方向にバージョンアップした。
さあ、名前は?

c# (シーシャープ)
この名前面白いですよ。
++をちょっとずらしてもらっていいですか。
ほら、重なって#の文字に

Java (ジャバ)っていう言語も聞いたことありません?
あれは紅茶飲みながら、テキトーに作ったから。
ジャワティーのこと。
気合い入ってないゾッ、っていうのが良いのよね。

ひたすら期
話を戻して私のこと。
ハッタリ期は過ぎて、ついては行けるように。
後は、ひたすら経験を重ねていくのみ。

資格も集中的に2年ほどの間にいっぱい取りました。
この業界、資格がいっぱいありまして、数取っておくとウリにはなります。
10個。
内緒なんだけど、6000円出すと絶対に受かる方法があります。
いかんいかん、やっぱり内緒ね。

大きくいうと、SE(システムエンジニア)とプログラマーってのに分かれます。
お客様と打ち合わせしながら、設計書を作っていくのがSEで
その設計書にしたがってプログラミングするのが、プログラマー。
比較的早くハッタリ期を脱するのも、両方出来たからかも。
ブランクが思いっきり長いけど、SEの方のコツみたいなのは
時代が変わってもそうそう変わるもんじゃない。
でも、SEだけだと、派遣の人間はほとんど使ってもらえない。
そこは、社員さんがやっちゃうので、そのお手伝いだけ。
プロジェクトの最初の方は、設計して、
それが出来たら、じゃあプログラム組ましょかになる。
どっちも出来ると比較的長くおいておいてもらえます。


すこし余裕が出来てくると、
あることがしたくなってきます。

ノンプログラミング。

ここから先は、また次回ね。

護国寺に行ってきました。さすがは桂昌院

ずっと護国寺に行ってみたいと思っていたんですが
今日、行ってみました。

ウォーキング同好会のイベントにすることも考えてのことです。

地図

護国寺の前に
護国寺の前に
雑司が谷旧宣教師館にも行こうと思ったんですが
ちょっと道を間違いました。

おっと、もうすぐそこが雑司が谷霊園ではないか。
有名人の墓がいっぱい。
夏目漱石の墓だけでも、見ていくか。

初めての場所なので
ポケモンGOもやりながらです。

改めて、このポケモンGOって良いかも。
ちっちゃな名所にもかなりポケストップが配置されている。
その場所に行かないとクリクリ出来ないけど
えっここに、菊地寛のゆかりの何かが有るの?
みたいに。

子供が歴史や文化に興味を持つかもしれません。
小学生が、清士鬼子母神って小さな神社でクリクリしていた。

結局夏目漱石の墓は見つからなかった。
まあ、いっか。
次行こう。

護国寺に行く前に
目標のレベル5になりました。
当初の予定通り。
ポケモンは、ハイ終了!

護国寺
5代将軍、綱吉のお母さん桂昌院の作ったお寺です。
思ってたよりかなり大きかったですね。
池袋のすぐ近くにこんなでかいお寺があったとは。

大仏もあるし、
本堂にも入れました。
静寂の時を過ごすことが出来ました。

三条実美(さんじょうさねとも)と大隈重信(おおくましげのぶ)の
お墓も有った筈なんですが不覚にも見忘れました。

桂昌院の話は前にしましたが
若干の補足をしつつ、おさらいです。

桂昌院
もともと信心深かったお玉(後の桂昌院)は
ラッキーが重なって、ただの八百屋の娘だったのに
将軍の母にまでなり得ます。

玉の輿の言葉の由来ですね。
シンデレラストーリー。

たまたま将軍家光にお会いできた、お梅(のちのお万)にただついていったお玉
お梅が将軍の目に止まる。
帰らず、ここにおれ、ということで京都に帰れなくなる。
お玉もそのまま江戸の大奥暮らし。
さらに偶然が重なって、お玉自身も、家光のお目に止まる。

授かったのが男の子。
でも四男なので、お世継ぎとはならず、外に出る。
ところが、4代家綱がお世継ぎに恵まれないまま死去。
他の兄弟も、その時点で亡くなっていた。
養子として舞い戻ってくる。

全てのラッキーは信心深かったことへのご褒美。
恩返しせねば、と考えた桂昌院は、護国寺をたてたわけですね。

超マザコンだった綱吉も全面的に支持。

それだけではなく、日本各地の神社、仏閣の修復、復興に力を尽くします。
東大寺大仏殿、法隆寺、唐招提寺、新薬師寺等々。
また、全国の没落した小さな寺の復興にも尽力。
その数100余り。
生活に困っている人たちに米を支給、病気の旅人が無料で治療を受けられるようにした。

要した費用は、70万両(現在の価値で1400億円)これまで蓄えてきた幕府の資産の3分の1をつぎ込んだのです。

さらに、この親子は幕府の考え方を全面的に変えた。
人を殺してナンボ、の武士という世界。
そこに、仏教の慈悲という世界を持ってきた。

そしてすばらしい法律を作った。
人は殺してはいけません。

武士はどうすりゃいいんでしょう。
すごい方針転換ですね。

実際に、切り捨て御免はそれ以降の江戸時代で一切行われていない。
何らかの理由で、切っちゃった武士はちゃんと裁かれています。
手始めに、見せしめ的に行われたのが
浅野内匠頭の刃傷沙汰で、即日切腹

この法律、おまけに、
人は殺してはいけません
の後ろに
動物もね
とついていた。

長くなりましたので
生類哀れみの令が
元々はとても良い法律だったっていう話は
綱吉の時のコラムを見てくださいね。

占春園
次目指すのは、占春園(せいしゅんえん)という庭園
教育の森公園とかの一帯の中心にあります。

行くと、閉まっている。
木が倒壊して危ないので、当分の間ここは閉鎖します、とのこと。
仕方ない、逆側から入るか。

ぐるっと回って
この辺かなあ。
あれっ、おんなじ看板。
ということは入り口の問題ではなく
占春園全体が閉鎖なのか。
期待していたばかりに、がっかり。

まあ、いっか。

相変わらず、立ち直るのが早いのは自慢です。

占春園は閉鎖でしたが、
横の窪町東公園はとても良い公園でした。

東京大学総合研究博物館小石川分館
ビックリしました。
この長い名前のところ。

小石川植物園の敷地内にありながら、
別に仕切られていて、
小石川植物園は400円なんだけど
ここは無料。

分館という名前といい、ここだけ無料ということといい
なめてました。

はっきりいって、今回のお出掛けの中で
一番衝撃的でした。

芸術でした。
私の中で、イビキをかきながら眠りこけていた芸術心
揺り起こされました。

ガーンってきた。
絵画でいうと一番好きなのはミロでした。
抽象的な方がわしづかみにされる。

一角に訳の分からないオブジェが有って

立ち尽くした。
えっ?えっ?ってぐるぐる回って、ぼわーんとなって

ごめんなさいね。
なんせ、説明できる代物ではないんで。

良かった。
良い発見。
私はまだ、この手のものに感動できるんだ。

小石川植物園
ここも江戸時代に重要な意味を持っている場所。
綱吉の屋敷でしたが
吉宗の目安箱で採用された改善案。
投書したのは、小石川伝通院前で 町医者を開業していた小川笙船(しょうせん)。

小石川養生所が作られ、
多くの貧しい人が助けられた。

別世界でしたね。
今日は、それほど暑くはなかったけど
この中は完全に森で
涼しかった。
あの木も、この木もどでかかった。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ