これぞ日本庭園。灯篭を知ろう。

日本庭園シリーズ
今は石がらみで来ています。

となると、灯篭ですね
灯篭があるのが日本庭園、そうじゃないのが洋風庭園、と言っても良いくらい
必須アイテム

灯篭
灯篭(とうろう)ないしは燈籠

仏教が飛鳥時代にもたらせたのと同時に
朝鮮から伝来
ところが、今現在、朝鮮にはこれに該当するものがないというから
日本で独自に発達したと言っても良いでしょう。

日本庭園に置かれるようになったのは、桃山時代
茶の湯の露地の発達と共に
夜の茶会の照明用に露地に置いたのが始まり。

えっ
本当に照明なんだ
名前からしても、形からしても
当たり前なんだけど
現実に中に火が入っているのを見たことが無いので、とても新鮮です。

灯篭の種類

何気なく「灯篭」とひとくくりにしちゃいますが
大きくいくつかに分かれます。

春日(かすが)灯篭
最もポピュラーです。

用途としては道を照らす。
歩きやすいようにね。

今で言う街灯の役割なので、火は高いところにある。
竿が長い訳です。

色んなタイプはあるものの
春日がついている訳ですから
春日大社がブランドを形成。

一番分かりやすいところに鹿を配置
奈良ーっ

雪見灯篭
竿がなく、池のそばにあって、
人ではなく池を照らすのが雪見灯篭

雪見って名前、風流な感じはするものの
何が雪見なんだか、いまいち分かりませんね
この前、清澄庭園のガイドさんが教えてくれました。

雪見灯篭の灯りが、池面に映り
ゆらゆら揺れて
まるで雪が降っているよう、と楽しむ。
雪のように見えるから雪見

足と傘がかっこいいんですよね。

岬灯篭
さらに足すら無くなっちゃったのが、岬灯篭
洲浜の一番端っこにちょこんと置かれ、アクセントに

海の灯台の意味ですけど
とにかく可愛い。

あるとないとじゃ大違い。

織部(おりべ)灯篭
これ、あまり記憶にないけど
どこかでみたことあるのかも知れません。
茶人として超有名な、古田織部さんが考案したということで
茶室の露地にはかなり一般的らしい。

竿の下に台がなく、直接地面に深く突き刺すらしい。
あとは、竿の上部がぷっくら膨らんでいるのが特徴。

隠れキリシタンが密かに建てたと言われていて
別名キリシタン灯篭
ぷっくら部分が十字架に見えなくもない

もう少し出っ張ったら十字架だけどギリギリセーフ

でも、別名キリシタン灯篭なんて言われちゃった時点でアウト、って気がするけど。

古田織部さんはキリシタンではないけど
本郷織部さんっていう人がキリシタンとして処刑されたということから
織部繋がりっいうことがあるのかも。

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カラスウリ

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ラジオ体操っ。だいいちーっ

この前、いつも聞いている、TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」でラジオ体操の話をしていて
とても面白かったのでまとめてみました。

始まり
ラジオ体操っていつ始まったの?

実は、今のラジオ体操は3代目なんだけど
初代の始まりは?ってことになると

旧逓信省簡易保険局が制定した「国民保健体操」に遡ります。
昭和3年が始まりです。
簡易保険局っていうのがミソです。

諸外国に見習って、大正5年に保険ってものを始めたんだけど
良く良く調べてみると
当時の平均寿命
人生50年時代って良く言うけど
実は50歳にも満たず、40歳台だった。

まずいっ
もう一度ようく計算して
いかん
丸っきり破綻している。

国家の一大事。

でも、じゃあやめちゃうか、にならないところが、偉いところ。

よっしゃ、
平均寿命を伸ばそう。

体操したら健康になるらしいよ

ほんまか
急げ、すぐにやれ

当時普及し始めた、ラジオに白羽の矢が当たる

お前、体ガッチリしているから
お前が先導せよ

ご冗談
私は、このように軍隊で・・

何だと?口応えする気か
クビ!
明日からNHKへ行け

ってことで
急遽、軍人さんがNHKアナウンサー
江木理一さんです。

軍人さんが主導した体操なので
規律正しく、テキパキと

こ、これは訓練でしょうか。

ラジオから流れるのは、最初は音楽はなく、江木さんの号令のみ
後に音楽はついたみたいですけどね。

どうやって、体操の仕方が分かるんだと思いますが
放送開始時間になると、全国の郵便局員が
各会場に散らばって、先導しつつ指導。

みんなも頑張ります。
結構、日本人はこういうの好きだったりしますね。

もう自然に体が動き、一糸乱れぬ体操です。

戦後
敗戦。
GHQがやって来ます。

こらっ、ユーたちはこんなことやっとるのか

確かに一糸乱れぬ体操やっているのを見ると、
ちょっと恐いと思われるかも

ラジオ体操大好きな国民達は
禁止になりそうな空気を読んで、先手を打ちます。

流れるような、優雅な音楽を付け
これは体操じゃなく、ダンスですよ、と
これが二代目

作戦スバリ的中

これならば問題なし

やったー

でも変です。
そんなの聞いたこともありません。

なんと、二代目放送開始から四ヶ月後に中止になります。

体操しにくいっ
全国から非難非難轟々。
再現しているユーチューブ見ると
こらあかんやろ

戦後二代目ラジオ体操

で、今の三代目になるわけですね
めでたしめでたし。


夏休み、ラジオ体操やりましたよね
首からカードぶら下げて

はんこくれるにいちゃんに媚びを売って
何とか前の日の分を押してもらおうとして。

これがなかなか、真面目なにいちゃんの時は、大変だった。

ひんやり
眠たい

この二つしか記憶にないけど
今から思えばだけど
なくしたくない気もします。

当然今はそんなことやっていないんだろうと思うと
意外や意外
結構、やっているところもあるようです。

でも、学校的には、毎日を強制はしていなくて
夏休み中にどこかで10日、みたいなのが多いらしい。

最近、ラジオ体操第三が話題になったりしました

津軽弁や、沖縄弁のラジオ体操もやっていましたけど
津軽弁は大笑い出来ました。

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フロックス

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ラフカディオハーンが見た、変わり行く日本

「外国人が見た、幕末・明治の日本」からのシリーズになります。

日本を愛した外国人、と考えて、一番先に頭に思い浮かぶのは
ラフカディオハーン、小泉八雲ですね

このシリーズで、日本の事を好意的に捉えてくれている外国人を多く見てきましたが
そりゃあ、一番日本の事を好きだったのはラフカディオハーンでしょ、って
そう思っていました。

この本を読んで、少しその認識は変わったと言いますか
より深くなったと言いますか

ラフカディオハーン
1890(明治23)年、ラフカディオ・ハーンは39歳で、長らく憧れていた日本の地を踏む

まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。
人も物もみんな小さく風変わりで神秘的である。
青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、
その小柄な売り子が微笑んでいる。

イギリス人のハーンは、アメリカで新聞記者として働いた後、
ハーパー社の通信記者として日本にやって来る。
いわゆるお雇い外国人ではない。

その後、日本人と結婚し、日本に帰化し、二度と日本から出ることがないなんて
この時は考えていなかったでしょう。

来日から、4か月後、島根県松江市の松江尋常中学校に英語教師として着任する。

町の暮らしの始まりを告げる早朝の物音に起こされて、私は障子の窓を開け放つ。
そしてまず、川沿いの庭に芽吹き始めた柔らかな新緑の茂みの向こうに、
朝の様子を眺めわたすのである。
眼下に流れる大橋川の幅広い鏡のような水面が、すべてをうつろに映し出し、
きらきらと光っている。
その水面は宍道湖へと注ぎこみ、灰色に霞む山々の縁まで、
右手方向に大きく広がっている。

学校から家に帰る途中、お城の広場を抜けて近道をしていると、
しばしば楽しげな光景に出くわす。
三十人くらいの小さな男の子たちが、着物に草履履きの帽子を被らない格好で
これも和服を着た若いハンサムな先生から、行進しながら歌を教わっている。
男の子たちは、歌いながらみんなで列を作り、小さな素足で拍子をとっている。

翌年、熊本第五高等中学校に異動するんだけど
松江の同僚や生徒たちとの別れの時に、こう綴っている。

彼らを目の前にして、私はこう自問するしかなかった。
このうれしい顔ぶれを 「もしどこか別の国で、同じ期間、
同じ仕事をして暮らしたとして、これほどたゆまぬ温かな人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか」と。
私はどの人からも、親切で丁重な扱いしか受けなかった。
ひとりとして不注意からでさえ、私に卑劣な言葉を発した者はいない。
五百人以上の学生を教えていて、堪忍袋の緒が切れそうになったことは、一度としてなかった。

至福の日々。
しかし、熊本では、全く同じ感覚で進んではいかなかった。

西南戦争で荒れ果てた地は、出雲の神々が住む松江とは異なった風景だった。
それにしても、住む人と松江の時と同じように触れあえたら

問題は、そこ
それは決して、熊本がということではなく、日本全体が
少しずつ、軍国主義的な方向へ進んでいってしまう。

そしてとうとう、1894(明治27)年、日清戦争勃発

出征の時に見かけた兵士達。
たまたま、彼らが凱旋帰国する時に遭遇する。

見ているわたくしには、これがみな、さきに出征の時に見たのとおなじ兵士たらだとは、
どうしても思えなかった。
どれもこれも日に焼けたこわい顔をして、髭をぼうぼうと生やしたのが大ぜいいる。
紺いろの冬着の軍服は、すり切れたり破れた靴などは、もう形もないまでになっている。
しかし、威勢のいい大股の足なみは、いかにも鍛錬された兵士の歩調だった。
かれらは,もはやただの若者ではなくて、世界中のどんな軍隊すら相手どることのできる荒武者であった。

変わってしまった
と嘆くところだろうが、次の瞬間に不思議な気持ちになる
下男の万右衛門に、「彼らは今夜、帰らぬ戦友を偲ぶことだろうね」と問いかけた時。

西洋では、死んだものは帰らないとおぼし召すでしょうが、
わたくしどもは、そうは思いません。
日本人はだれでも、死ねばまた帰ってまいります。
帰る道をみんな知っております。
へぇ、みんな、もうわたしどもといっしょにおりましてな。

何を言っているのだろう。

単純に日本礼賛の時期を越え
かといって、変貌した日本人を嫌悪するかと思うと
不思議な日本人の精神構造に出会う

一体彼らは。

生涯をかけた研究テーマになるんだけど
向こうにいる日本人を観察する、という方法を取らなかった。

自分が日本人になるという道を選ぶ。

我々日本人
我々日本人は、どういう日本人だろう。

小泉八雲も含めた日本人達から
何を引き継いだろう

何を伝えていけば良いんだろう。

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ジニア(百日草)

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貝原益軒。養生訓で長生きくん

江戸の理系力シリーズ

有名どころです。
貝原益軒
かいばらえきけん 本草学 1630~1714

貝原益軒は寛永7(1630)年福岡に生まれる
お父さんはお医者さん
子供の頃は平家物語や太平記を読んだ好奇心旺盛な少年

8歳年上のお兄さんも、お医者さんで、藩から
5年間京都での医学修得留学を許される。

そんなお兄さんに教えてもらいながら、益軒も医学を修得していく。

そして19歳の時、藩主に召し抱えられ、可愛がられる。
すぐに、藩主の江戸参勤にお供できるほどになる。

江戸だあっ
見るもの聞くもの珍しくて、大興奮だったんだけど
参勤交代なので、翌年にはもう戻ることになる

でも、すぐに
今度は、1年間、長崎に勉強に行って良いよ。

ここまでは順調だったんですが
可愛がられていたはずが、何があったんでしょう。
藩主の逆鱗に触れて、クビ
浪人になっちゃいます。

悲しみにくれ?
って事にならないのがひと味違うところ

良いんでないの
良い機会だから、好きなことをいっぱい勉強しよう。

6年後
そろそろ江戸に出てみようかな
江戸は面白かったからなあ

江戸の藩邸にいた父を訪ねる
父のつてで、藩のお偉いさんとも会え
よほど人柄が良かったんでしょうね
人気者になります。

福岡藩主が代替わりしたとき

殿、とても面白い人物がおります。

ほんまか

口添えしてくれて、あっさりと赦免

さらに、京都へ遊学を命じられます。

色々あっても結局は自分の方へと引き寄せていく力があるんでしょうね。

京都では、様々な人に教えを乞い学問の範囲を大きく広げます。
その中でも生涯をかけて最も中心になる「本草学」は
稲生若水(いのうじゃくすい)に師事した事が大きい
薬草を中心にした植物学です。

どんなお偉い大先生かと思いますが
なんと益軒より25歳若い、ほぼ少年に近い人
素晴らしいですね
自分より優れている面を持っていれば、誰でも即、先生として教えを乞いに行く。


益軒の特徴は、全て実践的であること
日本国中、旅して回り、有用なものを集め
帰って、それを自分で育てるというところまでやる

それまでの本草学は中国が中心だから
膨大にある中国の本をひたすら読んで翻訳するタイプの人は何人かいたけど
見たことも無い薬草がどんなに効くと言われてもねえ

日本の気候でちゃんと育てられる、日本のための本草学
ということで、「大和本草」全16巻の大書です。

本草というくらいだから、植物の本だと思いきや
植物、動物、天文、地理、歴史等
早い話が今の百科事典だと思えば良い
あらゆることがすぐに引けるように分類されている。

それをひとりで作れるもんでしょうか
旅をしながらですよ

でも、実はそれは序の口
本草学を中心としてあらゆる分野の本を膨大な量、書いていきます。

大和本草(16巻)。本草綱目校正(38巻)。本草名物附録(1冊)。其の外花譜(5冊)。菜譜(3冊)。和漢名数(3冊)。日本釈名(3冊)。
まだまだいっぱい

参った!

養生訓(ようじょうくん)
どれだけバイタリティのある人よ、って思いますよね
最終的に書いたのが、あの、超有名な「養生訓」なんですが
訓ってくらいだから
人生成功するためには、こんな風にしないといけませんよ
みたいなこと書いてあって、
ははーっ、
的な

違うんです。

そもそも、虚弱体質。
虚弱体質だから、子供の頃は本ばかり読んでいた。

でも、大人になってこんな事していたら体に悪いと思って
できるだけ外に出るようにしたら
今度は、旅行の楽しさに気づいた。

そもそも益軒って名前は、かなり晩年になってから名乗ったもので
それまでは「損軒」って名乗っていた。
損ばかりの人生だって良いじゃない、ってことかな

残り少なくなって、もうそろそろ益でも良いかなって思ったんでしょう。

はい、良いです。全然良いです。

養生訓は、なんと84歳の時に書いたもの

歳の離れた奥さんが亡くなって
ああ、もうちょっとやってあげられる事があったんじゃないかって、後悔
自分の体も月を追うごとに急激に衰えていくことを感じて
何か残しておきたいなって
遺書のような作品

ベースには儒学があるから
前に出ることなく、
人への気遣いも忘れずに
不摂生は極力控えて
慎ましやかに生きていけば
薬なんかに頼らなくても
十分健康で生きていけるんじゃないかって

自分は薬の専門家なのにね

そんな等身大の訓を、誰にでも分かる
優しい文章で書いていく
「訓」じゃなく「くん」って感じ

ちょっとした心がけで良いし
確かにそうしていたら体の調子も良いよねって
本当は分かっていることを、改めて言ってもらっているような内容。

こりゃ売れますわ。
益軒、人生で最大の大ヒット作

そして、その翌年
静かにこの世を去ることになります。

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オシロイバナ

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