[昭和歌謡]85 北の宿から

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

北の宿から
都はるみ
作詞 阿久悠、作曲 小林亜星
1975年

♪あなた変わりはないですか
日毎寒さがつのります
着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます
女心の未練でしょう
あなた恋しい北の宿

出ましたっ
演歌と言えば、これか津軽海峡冬景色です。

着てはもらえぬセーターを編むんですよ。
おお恐

これぞ演歌ですね
そんなんするかいな、と思いつつ
ここまでこの世界観で統一されちゃうと
心にズドドドトーン、でございます。

都はるみ
好きやわあ
歌がうまいとかそういうレベルじゃないですね

次元が違います。
世界が違います。

得意のこぶしを封印してですからね。

強い女
改めて、歌詞を見ていきましょう

かつて、淡谷のり子さんが、演歌撲滅運動なるものを提唱し
北の宿からを名指しで批判

別れた男のためにセーターなんて編んでんじゃないわよ

淡谷さんらしいですね

作詞の阿久悠さんのイメージ

北の宿ってどこかというと、信州らしいです。
近っ

不倫していた30過ぎの女性が相手の男性と別れた。
気持ちの整理がつかないため
踏ん切りをつけるため
北の宿に泊まって自分なりの儀式をしようと。
編みかけのセーターを仕上げて、はい仕舞い

出来たセーターは捨てるのもなんだし
宿の主人に差し上げた。
すっきり

女性はこれできますね
付き合っていた相手との記念の品は全部捨てられる。
中でもプレゼントされた金目のものは売って金に出来る。

男は一個ぐらい置いとくもんなあ。
ねちねち引きずる。

弱い女って
必死で探したらいるかも知れないけど
長い人生、私はただの一人も出会った事はございません。

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[名僧] 叡尊。厳しく戒律を守りつつ貧民救済

鎌倉時代の名僧です。

叡尊(えいぞん)
1201~1290 真言律宗

何とも愛嬌のあるお顔ですね

叡尊(えいぞん)は幼くして母を亡くしたため、出家
奈良興福寺の学僧の慶玄(けいげん)の子です。
ただ、母親が早く亡くなり、兄弟が多かったため、口減らしでしょうか
他家に出されます。

11歳のとき、醍醐寺(だいごじ)の叡賢(えいけん)に引き取られて、仏の道に。
仏教を色々学んでいくうちに一番心引かれたのが弘法大師空海

高野山で修行を重ね、奥義を極めます。

そんな中で、叡尊が最も重要視したことは戒律を守ること
元々弘法大師は厳しく戒律を守っていたし、その弟子もそうだったのに
長いときが経つにつれて、有名無実化していました。

当時の真言宗は、廃れていて、見る影もありません。

この状況になったのは、戒律を守っていないからだ。
戒律を守るところから始めよう。

東大寺で受戒を受けました。
受戒とは、10人ほどのお偉いお坊さんの前で、戒律を守ります、と誓い
一人前の僧として認めてもらうんです。

ただ、その10人を見て
こりゃダメだ。

その場では受戒を受けましたが
自分なりの受戒の制度を勝手に作り、自分がその1号に
「自誓授戒」と言って、
人間の前で誓う訳でなく、仏の前で誓う。
「おてんとう様が見てますよ」の感覚ですね。

当時、どれくらいの時代かというとこんな感じ

親鸞より50年ほどあとの位なので
巷では、一般市民の中で念仏信仰が熱病のように広まっている。

どちらかというと、南無阿弥陀仏さえ唱えれば、あとは何かを厳しく守る必要がないというもの

あまりにも広がっていくのは幕府としては怖くて仕方がない。
法然や親鸞に対する弾圧を繰り返す訳ですが
そんな中で注目したのが、叡尊の存在。

自分達の決めたことを庶民達に守ってほしい幕府としては
守るという方向に舵を切った、叡尊は有難い存在。

西大寺は、東の東大寺、西の西大寺と言われ
一時は興福寺とも並び称せられるほどの大伽藍(だいがらん)だったのですが
今は、荒廃しきっていました。
その再興を、叡尊に任せます。

ここまで見てくると、
自分に厳しい人だったのね
体制に気に入られたのね
まあ、良かったじゃない。
というくらいの印象

叡尊は、ここからが違っていた。

文殊菩薩
叡尊は、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が大好き。

文殊というのは、姿を変えてその信仰者の前に現れます。
「貧窮」、「孤独」、「苦悩」
そういう人を見たならば文殊の化身なんだから供養しなきゃ、となる

ことごとく救済の手を差し伸べました。
助けてやるぜ、みたいな高飛車な感じじゃなく
文殊菩薩様の供養なんです。

布施屋(ふせや)という、療養所のようなものを多く建てて、
怪我人や病人に薬を与えたり、風呂に入れたりしました。

罪人や、非人や、ハンセン病患者や、極貧の人達

それは、単純な福祉ではなく、布教活動の一環です。
となると、叡尊の信条、戒律というものが強く出てきます。

一番主張したのは
生き物を殺さないこと

叡尊の信者が社会的に弱者を中心的に増えていきました。

平安時代までは、ほぼ貴族のみに広がっていた仏教

鎌倉時代になって、法然や親鸞の出現で
庶民に急激に広まった。
そう思っていました。

もちろん、それは間違いじゃないんだけど
「法然や親鸞」だけではなかったんですね
叡尊というもうひとつの広がり方があった

法然や親鸞は、方法を念仏だけというとても簡単なものにして
誰でもできますよ
念仏さえ唱えれば、死後、極楽浄土(ごくらくじょうど)に行けますよ
と言うことで心の救済を行った。

叡尊は全く違う。
あくまでも現世利益
死後、どうなるかなんて、それどころじゃない人がいっぱいいる
今日明日の事を解決することの方が大切なんじゃないか

でも、ものを与えるだけでは
受けとる事を待っているだけの人間になってしまう。
念仏だけじゃなく、仏教としてもっと必要なこと、を広めなきゃ

私が生まれ変わることができるなら、
極楽浄土というところに生まれたくはありません。
五濁悪世(ごじょくあくせ)に生まれたい。
五濁悪世には今苦しんでいる人がいっぱいいる。

いわゆる福祉活動には資金がいっぱいいる
叡尊にそんなものがあるわけはないので
地域の有力者に積極的に会い
自分の考え方を語って、協力者になってもらう。

幕府等の体制側に気に入られたと言うことも
その延長なのであって
自分の地位や私腹なんてものには全く興味がない。
体制に迎合しないってことは、格好いい事だけど
自分の優先順位と照して、現実的に物事を考える。

元寇(げんこう)
中国の元が日本を攻めますからねと予告
日本は上へ下への大騒ぎ
冷静に考えて、国の規模は段違いなので
コテンパンにやられるでしょう。

幕府は、こんな時こそ頼み時
いつも目をかけている訳だし。

祈祷で追い払っておくれ

よろしおす

いつもの弟子たち総出で石清水八幡宮に繰り出すこと300人
一斉に声を揃えての祈祷は大迫力

八幡神にも仏様にも通じたのでしょう。

奇蹟でしょうか、ちょうど大風がおこり、元軍はほうほうのていで逃げ出します。

やったぁ
叡尊はまさしく救世主だ

一躍時の人になり、超人気者に

でも、今まで通りで、名声におごる事は有りませんでした。
弟子の忍性に引き継がれて行きます。

ちょっとは、資金集めが楽になったかな

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新江戸百景巡り。完成ーーーっ。その2

新江戸百景巡り。完成ーーーっ。その1
の続きです。

富士大山道の道標と庚申塔


大山道って江戸方面から大山へ参るための道です
大山は霊山で、山自体が信仰の対象。
大山参りは江戸庶民の間で大流行

大山、富士山、お伊勢さんは、ホップステップジャンプ
一番距離が近く、2~3日で行ける大山は大人気
江戸、その郊外、から大山へ行く大山道はかなりの数有り
ここからこっちは大山道という大山道の道標はあちこちで見かけます。
その度に、みんな大山が大好きだったんだなあと思います。
セットで訪れるであろう、江ノ島もね

ここは、「富士大山道」とあるので
その先で、富士への富士道との分かれ道が出てくるのでしょう。
ホップステップ両方とは豪華です。

薬師の泉
びっくりです。素晴らしいです。
こんな素晴らしいものを農民の新見善左衛門が作ったなんて

最近、百姓が作ったすごいもの、を立て続けに見ていて
改めて、「江戸時代の百姓は裕福」を追証していっている。

江戸をずっと歩いてきて、例え150円でも有料にしている庭園と、
そうじゃない庭園とは違うなあと思う訳です

ところが、板橋区はどれだけ金を持っているんでしょう。
先日の徳水亭といい、この薬師の泉といい
完全に有料のレベル






お見事!

例によってぐっと崖になった斜面を上手く利用している。
出口の近くにベンチがあった。
庭園見物のコツなんだけど。ベンチがあるという事はそこからの眺めが良いため、
ゆっくり鑑賞してほしい場所

今までも十分素晴らしかったんだけど、座ってみましょう。

おおおっ、そう来ましたか。

お隣の大きなお寺(大善寺)が借景

というか、そもそもが大善寺の庭園だった。
この大善寺自体、農民の新見善左衛門が作ったって信じられますか
大善寺のご本尊は、あの聖徳太子が作ったという薬師如来だし
8代将軍吉宗が立ち寄るほどの大寺院
その時もらった泉の水があまりに美味しかったので
「今後、清水薬師と呼ぶように」と名付け親
江戸名所図会(えどめいしょずえ)にものっているという
名所中の名所。

ここは、無くなっちゃっていた場所に、
平成元年、板橋区が江戸名所図会の絵を元に再現したもの。
板橋区さん。基本的に物事に取り組む姿勢が天晴れです。

水上バス乗り場
なぜか急にコースの中に、「水上バス乗り場」
何だか今までとテイストが違うなあ
飛ばすか?

寄ってみてびっくり

今まで、神社仏閣、庭園の緑系ばかりでしたが
ここでそう来ましたか


新河岸川
新河岸川ってそう広くないイメージだったので
新たな発見が嬉しくて。

ああ、大きい川大好き。
何て気持ち良いんだ。
コースに入っていて大正解

墨田川を行ったり来たりの東京水辺ラインって、新河岸川まで上っていくんですね

龍福寺
あっ、ここにも板碑
このコース、板碑の当たりコースです。
これも、阿弥陀三尊

お寺の庭園で芝生がこんなに綺麗なのは珍しい

戸田橋親柱

志村一里塚
このコースでの最終ポイント
そして、新江戸百景巡りのラストワン

ああ

着いた



中山道の一里塚です。
一里塚って全国的に見てもほとんど残っていないんです。
街道の両側に榎(えのき)の大木
随分遠くからも良く分かり

随分歩いたなあ
これで一区切りだ
日影で少し休んだら
また歩き出すことにしよう。

コンプリート
新江戸百景巡り
コンプリーーート

こんなに実際に歩いたんですね
もちろん、もっと歩いていますけど

少し自信がつきました。
ただ行ったというだけではなく
そこそこ詳しい解説を全てについてする事ができます。

オリンピックに向けて、私に何か出来ることがないか
色々アクセスしてみようと思います。

随分歩いたなあ
これで一区切りだ
日影で少し休んだら
また歩き出すことにしよう。

おでかけマップ

新江戸百景巡り。完成ーーーっ。その1

江戸検定の今年のお題「新江戸百景巡り」の本にあった100箇所を歩いて回ろうという試み
リーチがかかっておりました。

最後の場所は志村一里塚

最後の辺の10箇所程度は、ピンポイントでその場所だけを電車で乗り継ぐ
若干ずるい気がしなくもないので
ラストはちゃんとウォーキングのコースとして参りましょう。

と思っていたので、志村一里塚を最後に残したんです。
板橋区のウォーキングマップの志村コースに入っているのを知っていましたので。

スタート
このコース、極めて神社仏閣が多い。
ああ、良かった。神社仏閣を楽しむ術を身に付けていて。

氷川神社(ひかわじんじゃ)と南蔵院(なんぞういん)
敷地が隣り合っています。
てことは、明治維新で廃仏毀釈になるまでは、同じ敷地で合体していたんだと思います。
氷川神社

南蔵院(真言宗)


しだれ桜の名所で春はすごいことになるそうです。(南蔵院のホームページから引用)

ここの良さは、十一面観音とか、地蔵菩薩とか
仏像の解説を詳しく看板に書いていること
仏像の見分け方ファンとしては嬉しい限りです。

長徳寺
こちらも真言宗

今、石塔を勉強している最中なんですが
いやあ、勉強になります。
これは宝篋印塔(ほうきょういんとう)
四角のそれぞれの端が上側にちょんと出ているのが特徴ね

おっと。さすがは真言宗。大日如来がおられます。
大日如来は、お釈迦様より偉く、金ぴかの冠被っています。

このあともそうですが、崖線といって、急激な崖が連なっている地域
崖からせり出した感じの巨木がすごい迫力

熊野神社
今回不思議と八幡神社が無いんですが、その代わり、熊野神社が二つも
そのひとつめです
参道が長くてかっこいい

常楽院
これまた真言宗
庭がとっても綺麗

ずっと真言宗なのに、ここでようやく弘法大師

この辺りでいっぱい弥生式土器が発掘されたそうです。

板碑がありました。
板碑って一枚の石の板に、梵字(サンスクリット語)で仏様の名前を刻んだりする
23区の各博物館では良く出てくる話なんだけど、実物を見たこと無かったんで感激

何て書いてあるかというと
阿弥陀三尊。阿弥陀様と右に観音菩薩様、左に勢至菩薩様

見次公園

池の回りでみんなのんびりと釣り
ただ、災害級の猛暑の中、のんびりとではなく必死で釣っているかも知れません。
手こぎボートが有名らしいけど、一艘も出ていませんでした。

この辺に恋人たちはいないのか
居ても、災害級の猛暑の中で手こぎボートをする、チャレンジャブルな恋人同士がいないのか

この公園も端っこは崖でした。

延命寺

今日行ったお寺は、このあとも含めて全部、真言宗
ここは区内最古の建長4年(1252)の板碑があるとのこと
それどころじゃなく、いっぱいありました。



最古のがどれかは分かりませんが、大日如来だとのことなので
右上の欠けたでかいやつのような気がする。

あと、いぼとりの効果がある蛸薬師と異名のある、庚申薬師があるとのことなんだけど
どれだけ探し回ったか
難しい難しい
結論的にはこれだと思う

蛸の絵が書かれている訳じゃないので分からないです。
蛸薬師って他にもあって、蛸の絵が書いてあるんだけどなあ

城山熊野神社

今日二つ目の熊野神社
こっちも参道長いです。
さっきの延命寺は熊野神社の別当寺です
別当寺とは、明治より前の神仏習合の頃、神社を管理するための寺です。

ここは、何がすごいってお城だったってこと。

中世の城なので天守閣とか石垣とかの城ではありませんが。

この前、やはり板橋区の赤塚地区で赤塚城がありました。
千葉兄弟、兄、信胤(のぶたね)弟、自胤(よりたね)
千葉一族の内部争いで殺されそうになり幼い二人は逃げ出した。
千葉県から板橋まで歩いてくる
そこで、太田道灌にかくまわれ
一つずつ城を与えてもらえる
赤塚城の時にそういうところまで調べて、弟は、赤塚城だけど
兄は、志村に城をもらったんですよと。

ああ繋がったぁ
こういうの本当に嬉しい。

境内の後ろに空堀(からぼり)跡があると書いてあったので、探した探した。
あったあ

後ろはすごい崖
こりゃ攻められんわ

そして、感動したのが絵馬堂

絵馬が今のような大きさ形用途になったのは結構新しい。
それより前は、大きな長方形の板に絵を書いて奉納するもの
知識としてはあったし、絵馬堂も1~2度は見たことあったけど
その中に本当にこんなにいっぱいの絵馬があるなんて初めて。

これが一番古くて寛政7年に奉納されたもの
寛政って8代将軍吉宗の頃ですから。

他にもこんなに

感動で息苦しいような、目頭が熱くなるような
特別な感覚でした。

さっきの裏手の崖のところには城山公園になっていた。
ここ、お前攻めてこい、ってもし言われたら、仮病使います。

長くなりました。
後半戦は、肝心の志村一里塚も含めて明日ね

おでかけマップ