[昭和歌謡]117 恋人よ

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズ

恋人よ
五輪真弓
作詞・作曲、五輪真弓
1980年

♪枯れ葉散る 夕暮れは
来る日の寒さを 物語り
雨に壊れた ベンチには
愛をささやく 人もない
恋人よ そばにいて
凍える私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑って欲しい

五輪真弓
売れていない時から知っている人が、急にバッと売れたら嬉しいですよね

私にとっては、五輪真弓がそういう存在でした。

レコードを持っていたのは「煙草のけむり」

♪煙草のけむりの中に
かくれて見えない
あなたはどんな顔で私を見てるの

初めてあったときも あなたは煙草をくわえ
そして 云った

火を貸してください
私の暗い心に
火を灯してください
あなたの赤いマッチで

今回調べると、4枚目のシングルのようです。

恋人よ は18枚目

そんなに長くやっていられる訳ですから、それなりだった訳です。

冬ざれた街、が5枚目
さよならだけは言わないで は13枚目

いつまでも売れないなあ、と思いつつも、存在感はずっとあった
まあ、フォークで売れなくても良いわなあ、ぐらいに思っていた
固定ファンはいましたから

恋人よ、を聞いたときも
いかにも五輪真弓だなあ と思っただけ

徐々に売れていって1位になった時も、どうにも実感がわかなくて
もちろん嬉しいんですけど何か変な感じ。

周りで急に「五輪真弓」って名前を耳にし出した。
知る人ぞ知るだったのに
えっ、この人たち、五輪真弓の事を知ってる訳ね
そうか、うれるってそういうことだもんね

ひとつだけ
恋人よ、の五輪真弓なんじゃなくて
五輪真弓の、恋人よ、なんだけとなあ、って思う

恋人よ
「恋人よ」は、デビュー当時に世話になったプロデューサー木田高介が
交通事故で無くなったときに作った歌

特に恋仲だった訳ではないけれど
やはり、交通事故で突然にというのはかなりショックだったらしい

この別れ話が 冗談だよと 笑って欲しい

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元に戻った。幸せの方程式

待ちに待ちに待った、ウォーキングイベント

緊急事態宣言解除の日に、イベントアップの情報入力して、「登録」ボタンを押すだけにして待機
コースは二度下見した文明開化の築地でございます。

この時ばかりは、安倍さんが観音様に見えました

解除と いたします

ポチッ

そして、本日その当日がいよいよやってまいりました。

なんといっても梅雨時
雨は十分にあり得ます。
例年だと、屋内施設をちりばめたコースをチョイス
雨でもなんとかなるコースに仕上げるんですが、今年はそれが出来なかった。
随分前から週間天気予報をチェック
一貫して雨

でもそんなことは過去何度も何度もあります。
私は絶対的晴れ男
週間天気予報を覆してまいりました。
あれ、結局傘ささずに行けたね、ってことが何度もあります。

前日まで来ても、雨予報でしたが、小雨っぽいぞ
決行だ

ところが朝、天気予報を見てると
大雨にご注意下さい

あちゃー

開始
お久しぶり~
会いたかった
ごめんね、結構降ってるね

いつもの自己紹介をして開始

文明開化のあれやこれや

昼食の場で、結局コロナの話は一切出なかった。
文明開化の話や、雨の話
もうみんな飽き飽きなんでしょう。

屋内施設の時間を長く取り
傘をさしながら、なんとかかんとか乗りきった

色んな解説を、いっぱい喋った喋った。

イベント終了

毎回思うけど
終わったあとのこの幸福感はなんだろう
ああ、戻ってきた。
この幸福感が戻ってきた

開催出来なかった期間があったので
改めて、自分はこれがあるから幸せなんだと思った。

これさえやれば、自分は幸福だという方法が分かっている
こんなラッキーな事があるだろうか
最後まで、自分の幸福の方程式を見つけられずに終わる人だってわんさかいるだろう。

みんなと歩けば良い
無茶苦茶難しい事ではない
でも、ひとりで出来ることでもない。
長ったらしい解説に付き合ってくれるみんなが必要
改めて、みんなに感謝

ありがとう

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

[神社]伊勢。式年遷宮でプレゼント

[神社]伊勢。ここが良いわ。
[神社]伊勢。斎宮の悲恋物語
の続きです。

式年遷宮
伊勢神宮と言えば、式年遷宮
20年に一度、全く建て替えちゃう

直近で言うと、平成25(2013)年

式年遷宮は伊勢神宮の専売特許のように思われていますが
出雲大社、上賀茂神社、住吉大社、香取神宮、鹿島神宮など
主だった神社では20年に一度、式年遷宮が行われてきた。

但し、場所まで移して全く建て替えると言うものではなく
屋根の修繕だったりと
マンションで言うならば、大規模修繕の意味合い。

なぜ伊勢神宮は?という疑問がわきます。

ひとつには老朽化
少なくとも茅葺き屋根は、20年に一度作り替える必要がある

式年遷宮の時に、解体まで立ち会った人は
躯体もボロボロだったと振り返っている

ただ、考え方としては逆な気がする
20年に一度全く作り替えるから、それ以上もたなくても良いやと言う建て方をしているんじゃないかと。

現に伊勢神宮以外のあらゆる神社は、もっともっと長く持っている

伊勢神宮たるもの、神社の代表であるため
最も神社としての基本的あり方を具現化したんじゃないか。

死と再生です。
太陽神としての天照大御神なので、日の出日の入りを繰り返す。
海外の宗教を見ても、キリストが復活したように
死んだあとに甦るというのは特別の意味を持っている。

秋に収穫して、春にまた芽ぶくという、稲作の繰り返し。
神社はもともと、稲の収穫を神に感謝することに始まる

春に山から、神様に降りてきてもらう儀式
稲作を見守ってもらい
収穫を感謝して、山に戻ってもらう儀式

儀式のためだけの施設として始まったから、常設ではなく
作っては壊す繰り返し。

その元あった形を象徴的に残したのではないかと。

式年遷宮の歴史
式年遷宮はいつから行われているのか

一般的には、天武天皇14年に式年遷宮が制度化され
持統天皇の4年に内宮が、同6年に外宮が遷宮と言われている

であれば、日本書紀に書かれていても良さそうなもんだが
一切その記述がない。

ずっとあとの伊勢神宮の記録、太神宮諸雑事記に初めてその記述が出てくる
結局、よく分からない

昔は火災も多かったと思うので、もっと早い時期に建て直さざるを得ず
きっちり時期通りがむつかしいこともあったろう

もし、天武天皇や持統天皇の時期から式年遷宮が行われたと仮定すると
唯一、持統天皇が伊勢神宮にお参りしたということと関係しているのではないか

壬申の乱です

壬申の乱に向かう前に伊勢神宮に参拝し、勝利を祈願
見事に勝利

古事記と日本書紀を編纂し、自分を天照大御神に見立てていた持統天皇
伊勢神宮には特別の思いもあります。

ありがとうございます。伊勢神宮
お礼に、ピカピカの真新しい建物を差し上げます。
今回だけではありません。
今後20年に一度ずつ、プレゼントしますからね

式年遷宮の理由は、案外そういうところにあるのかも知れません。

興味深いのは
ほぼ定期的になったあと、室町時代に入る14世紀半ばまで
20年に一度ではなく、19年に一度だった
内宮の遷宮のあと、2年後に外宮の遷宮が実施されている

応仁元(1467)年、応仁の乱が起きる

応仁の乱の5年前に第40回の内宮遷宮が行われたが
次の第41回はというと
123年後の、天正13(1585)年になってしまう。
外宮は、実に129年も間が空いた

元々20年前提で立てられていた訳だから、
相当に老朽化する

内宮第40回遷宮の30年後、伊勢神宮側から上申書が出されている

本格的な遷宮が無理なら、仮の遷宮でもやってもらえませんか。

でも、これも却下

とうとう、第41回の遷宮まで85年もの間
内宮は消失して、存在しなかった。

外宮の方が消失していたかの記録は残っていないのだけど
普通に考えると同じなんでしょうね

あの伊勢神宮が、世の中に存在していなかった時期があったとは
とても驚き

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[天皇]51 平城天皇。勤勉なる君主だったけど

天皇シリーズ

平城(へいぜい)天皇
806~809年

桓武天皇の息子で皇太子
桓武天皇の死去を受けて即位します。

平城天皇は実に真面目
桓武天皇が派手好きで、遊興を繰り返したのに
ただ真面目に行政改革を断行

派手好きな皇族貴族とはそりが合わなかった。
その代表格が、伊予親王と藤原乙叡(たかとし)

伊予親王は謀反を企てていると密告され、捕まった。
川原寺に幽閉され、飲食を絶たれた
最後は服毒自殺

藤原乙叡も連座され
この事件で、藤原南家は一気に没落する

遊宴・遊猟だけでなく、造営や戦争を好まなかった。
仏教についても、きわめて冷淡であった

何か派手な臭いのすることは一切せず
ひたすら真面目に仕事をし、改革を進めていった。

そんな精勤がたたったのか、病気になってしまう。

闘病中も法令を出し続けるが
ついに、譲位することを決意する

弟の嵯峨天皇が即位です。
元の派手路線に逆戻り

平城太政天皇は、体を癒すべく、平安京内ではなく、別の場所での療養を希望した。

色々探した結果、前の奈良時代の都、平城京に移った。

それまでは、天皇が譲位して太政天皇となっても、同じ宮内に住むので仕えるものは、両者兼任で仕えていた。
今度は場所が離れすぎているので二手に分かれることになる

二所朝廷と言われていた。

そうこうしているうちに、今度は嵯峨天皇が病気になった。

反比例するように、平城太政天皇は少しずつ回復していく。

すると、政治への意欲がふつふつと甦る

薬子の変
平城太政天皇の側近に
藤原仲成・薬子(くすこ)の兄妹

薬子は平城が皇太子の時から寵愛を受けていた。

真面目な人ほど、ひとたび女性に目が眩むとおかしな方向に行くと言います。

平城太政天皇は突然に宣言。

今後、都は、平城京に遷都します。

薬子が本当に平城太政天皇を焚き付けたのかは分かりませんが
薬子の変って名前がついちゃいました。

これが、称徳天皇が淳仁天皇に対して行ったように、
天皇をやめさせるというほど強いものだったかは分かりません。

ただ、前例もあるわけですから
嵯峨天皇にとっては、はいそうですか、って言う訳には行かない

嵯峨天皇の動きは早かった。

伊勢・近江・美濃の国府と故関を固めて戦乱に備える一方、
宮中を厳戒状態におき、平安宮に来ていた藤原仲成を拘禁
その後射殺します。

平城太政天皇は、敗色濃厚になったため、出家。
薬子は服毒自殺します。

変化
この薬子の変は時代を大きく変える要因になります。

まずは、藤原氏内での力関係

先程、藤原南家が没落した事を言いましたが
薬子の変では、藤原式家が没落
残った北家がこのあとの摂関政治へと大きく力を付けることになります。

次に太政天皇の位置付け
これまでは、譲位したあとの太政天皇が力を残しており
大きく政治に関与
二人の天皇的になる場合もありました。

この薬子の変で、太政天皇が失敗したことにより
太政天皇は長くに渡り、口出し出来なくなります。
次に口出しするようになるのは、ずっとあとの院制の時代からです。

次に女性の政治への参画です
それまでは、女帝自体も多かったですが
皇后がかなり力を持っており
何かと政治に関与していました。

この後、そもそも、長らく皇后自体置かれなくなります。

即ち、天皇、太政天皇、皇后が分担しながら政治を行っていたのが
天皇ひとりだけになり
それでは負担が大きすぎるので、
摂政関白といった
替わりに政治を行う仕組みが作られていく訳です。

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