[首相]10 原敬。東北からの平民宰相。

首相シリーズとして10人目。

原敬(はらたかし)

盛岡の南部藩出身。家老格の上級武士。

ただ、いかんせん、幕末の時代に南部藩。
最後まで抵抗した、筋金入りの賊軍

明治維新で、困窮。
そんな中でも、原は学問を学ぼうと東京に出る。
ところが、実家に泥棒が入り、送金も全く途絶える。
住み込みで働ける仕事を見つけ、何とか学問も続ける。

19歳の時、新政府に没収されていた原家の私有地が返還され
ようやく、学費の目処がつく
この時、分家。
分家すると、元は上級武士でも、平民という身分になる。
平民宰相と呼ばれるゆえんです。

ちょっとしたトラブルで、学校に退学を言い渡されてしまう。

退学後、新聞記者を経て、外務省へ。
その後、農商務省に転じ、
そこで、生涯の師と仰ぐ、陸奥宗光(むつむねみつ)と出会う。

陸奥宗光が農商務大臣を辞任すれば、一緒に農商務省を辞め
陸奥宗光が外務大臣になれば、再度外務省へ転身。

陸奥は、紀州藩で、薩長閥とは無関係。
薩長が大嫌いだった、原に対して

今の政府において、薩長に敵愾心を持ったところでどうしようもない。
であれば、うまく懐に入って、利用されている風にして、逆に利用しつつ
自分の信じる政策を実現すれば良い。

ここからの原は、現実路線に転換していく。

残念ながら陸奥宗光が病気で亡くなってしまう。
この時、官僚を辞め、民間、元のジャーナリズムの世界へ。

大阪毎日新聞社に入社。
瞬く間に出世し
なんと、大阪毎日新聞社の社長になってしまった。
その後、大阪毎日新聞社は大きく部数を増やす。

そんな原敬をずっと注目している人物がいた
伊藤博文

伊藤は長州閥のトップでありながら、
これからの時代は政党だと、立憲政友会を立ち上げる。

どうだね。原くん。
立憲政友会に参画してくれまいか。
君のために、大臣の椅子を用意するよ。
さらに、党の事務の一切を任せたい。

分かりました。私で良ければ。

第四次伊藤博文内閣。
逓信大臣の星亨が汚職で、辞任すると、そのあと、原敬が逓信大臣で初入閣
ところが、内閣内で意見がまとまらなくなることがあり
伊藤博文内閣が倒れたので
初入閣は、僅か半年になってしまいました

一旦ここで区切ります。
続きはシリーズの次回にね

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]65 花山天皇。騙されちゃったのね

天皇シリーズ

花山天皇
984~6年

円融天皇が藤原兼家の執拗な嫌がらせに耐えきれず譲位。

次の天皇は、自分の息子ではなく、先帝冷泉天皇の息子の花山天皇
円融天皇が即位する段階では、息子は生まれておらず
その時に最も権力を握っていた藤原伊尹(これただ)が外祖父になるには、
花山天皇が都合が良かったため、生後10ヵ月にして皇太子になっていた。
そのまま天皇になんだけど、後ろ楯であるはずの藤原伊尹はもう亡くなっていた。

とても、基盤が弱い中での船出。17歳です。
側近には恵まれました。

義懐と惟成
荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など
バンバン革新的な政治を行った

ただ、最も愛した女性、忯子(きし)が懐妊中に死んでしまいます。

ああつらい。もう死んでしまいたい。

悲しみに伏せている花山天皇を見て
あらぬことを考えたのが、兼家の息子の道兼

耳元でささやきます。

さぞやお辛いことでありましょう。
もし、出家なされば、忯子様と近い身になれまするぞ
私が、一緒に出家いたしましょうぞ。

おお、そこまで言ってくれるのか道兼
であれば私も出家しようかの

義懐と惟成に見つからぬよう、こっそりと二人で山科の元慶寺に行った。

私も世を捨てる身
その前にこの姿を一目、父に見せて来とう存じます。
すぐ戻りますゆえ。

おおそうか。分かった。

ところが待てど暮らせど、戻らない。
騙されたと分かった時はもう遅かった。
三種の神器も運び出されておりました。

即位してたったの1年10ヵ月
19歳の時でした。

花山法皇
とは言え、元々出家願望はあった。

まあ、いっか

比叡山延暦寺で正式に僧となり
その後、熊野詣でをする。

もと天皇の修行としては本格的なもの
那智の滝で千日の修行

歌の才能にもたけ
数多くの歌を残している。

木の下を すみかとすれば おのずから 花見る人に なりぬべきかな
(桜の木の下を住処ととすると、花を見る人に自然に(自分の意志とは無関係に)なってしまいそうだなあ。)

ところが、京に戻ると、悪い癖
女性関係がなんとも凄まじい。
出家したはずなんですが。

忯子(きし)のために死んでしまいたいと言ってたと思うのですが
その妹とも関係を持ちます。
親子に同時期にはらませたりと、無茶苦茶でした。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

深川でお寺を歩く。その2

深川でお寺を歩く
の続きです。

小津安二郎誕生の地を越え

心行寺
福禄寿

冬木弁天堂
弁財天

深川公園

明治6年に出来た日本で最初の公園のひとつです。
以前は何だったかというと永代寺
永代寺があったんですよという、碑がありました

永代寺というのは、富岡八幡宮の別当寺
別当寺というのは神社を管理しているお寺という意味です。

長盛というお坊さんが、寛永元年(1624)永代島に寺を作り、永代寺という名前をもらう。
六地蔵のひとつがあったという、でっかいお寺。

神仏習合ですので、富岡八幡宮も作る。

ここは、永代島という島で延々と続く砂地。
何かあると水に浸かる、あまり使えない土地。
ここを埋め立てる。
あとで、富岡八幡宮のガイドさんに聞いたんですが
その土地を貸したり、分譲したりして不動産業みたいなことをしていたらしいです。

そんなこともあってかなり隆盛を極めたのに
明治維新で廃仏毀釈。明治元年に廃寺にさせられたんです。
お陰で、六地蔵も今は五つだけ。
更地になったあと明治6年に初めての公園になったというのは
ちょっと淋しい。

富岡八幡宮
恵比寿尊

何度か来ていますがなかなか奥が深い。
何と言っても私は八幡さんファンですが
東京で八幡さんと言えばやっぱりここ。

今まで行っていなかった、角乗りの碑

富岡八幡宮には、ガイドさんがおられます。
東京の神社仏閣でガイドさんがおられるのはここだけじゃないでしょうか。
浅草寺でも浅草寺としてのガイドさんはおられなかったと思う。

一通り回った後、ガイドさんにガイドをお願いに行きました。

歴史を伺い、さっきの不動産の話。

お隣の深川不動さんは商売上手でらっしゃいますが
こっちは、昔から商売下手
不動産商売の方があったので神社の方にあまり力が入っていなかった。
若貴ブームの時の宮司さんがこれじゃダメだと、
ここは、相撲発祥の地ですから、土俵入りのセレモニーをしてもらうようにして
それからですね。

例のあの事件の時は大変だったでしょう。

はい。もうその事ばかり聞かれて。
事件の現場に案内してくれとか
ご勘弁いただきましたけど。

江戸時代は幕府との関係がうまくいっていて
明治になって、永代寺は廃寺になりましたが、こちらは残った。
元々、八幡宮と天皇とは繋がりが深かったので、
幕府から朝廷にうまく乗り換えられたと言いますか。

そちらに天皇陛下が来られた時の碑があります。

昭和20年3月18日と書いてあります。

それまで、皇居にいて、外の事がよく分からない。
今、町はどういう状態なのか、とおっしゃって。
八幡宮への参拝という形にして、視察されたんです。

えっ
昭和20年3月18日って、東京大空襲が3月10日だから、そのすぐあとですよね。
この辺りも大空襲を受けたんですか?

はい。もう一面焼け野原で、ひどいもんだったそうです。
何とか死体とかを陛下の目に入らないよう片付けたんだけど
やっぱり全部は片付けられなかったそうです。

そうですか
実情を見られたんですか。
だから、ポツダム宣言を受託したんですね。

そのあとの原爆は決め手になったとは思いますが
この日見られた事はひとつの要因になったと思います。

こちらによろしいですか。陛下のお言葉の碑です。

身はいかになるとも いくさとどめけり
ただ たふれゆく 民をおもひて

終戦後の御製です。

降伏即ち、自分の命はない
それでも、惨状を目の当たりにすると、続けられなかったのでしょう。

ネットで、戦後朝日新聞にマッカーサー元帥との会見録の抜粋が出ていたので引用します。

私は日本の戦争遂行に伴う、いかなることにも、また事件にも全責任をとります。
また私は日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官・軍人・および政治家の行為に対しても
直接に責任を負います。
自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、
それは自分には問題ではない、私は全責任を負います

今回、ガイドさんに教えていただいて良かった。
何度か来ていても、この碑の存在は知りませんでした。

そのあと、横綱の碑や大関の碑
お神輿や例大祭の事もかなり詳しく伺いました。

ありがとうございました。

紀伊国屋文左衛門

八幡宮のすぐ横のここ
紀伊国屋文左衛門の住居跡です。
何の案内板もないんですけどね。

晩年、資財を使い果たしたあと、住んでいた場所になります。

黒崎稲荷
浅草の黒崎町、大火のあとに、移転させられたのがここ
だから黒崎稲荷なんですね。
雀の森とも言われていました。こんもりと森が繁っていたそうです。
江戸三森のひとつ

あとの二つは、新橋の烏森神社、人形町の椙森(すぎのもり)神社

この中に、鶴屋南北の住居跡があります

東海道四谷怪談。それ以外にも歌舞伎の大ヒット作がいっぱいあります。

死の床についたとき、弟子たちを枕元に呼びました。
弟子たちに配られた冊子は一体何だったかというと
自分の葬式の台本。

お集まりの皆々様~

七五調の名文です。

石島橋

私が今まで見た橋柱の中で、一番お洒落だと思います。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

深川でお寺を歩く

晴れた週末は久しぶり。
歩くぞ!

深川七福神巡り
七福神巡りの企画を考える時期になってきました。

日本橋に始まり、雑司ヶ谷、谷中、港区、小石川
毎年正月に開催し、もう6回目になるのか
七福神の神様は毎年同じメンバーだから、いつも同じネタなんですがね。

今回の大前提は、そもそもご開帳をしてくれるかどうか。
あらゆるお祭りの類いはことごとく中止になりましたから。
三社祭なんて、お神輿がトラックで巡って、見学はお控えくださいって
乗っている神様も拍子抜けです。

七福神巡りのホームページでは、なかなか2021年にやってくれるかどうかが分からない。
行くしかない。

まずは有力候補、深川です。

深川神明宮
寿老人。
出ました。神明鳥居。神明宮ですから伊勢神宮系。

ここのお祭りはすごいらしい。

おおっ
お神輿の倉が並んでおりますぞ

でっかく1月元旦から1月7日までご開帳、と出ておりました。

ああ良かった。
とは言え来年は曜日の巡りがとても悪い。
1月初めの週末は2日(土)3(日)なのよね
3が日はウォーキングイベントはなかなか参加できないよね。
政府が1/11まで休暇延長に決めてくれるんなら問題ないけど。
ああ迷う。

芭蕉記念館
ここまで来ると芭蕉記念館も確認しておかなきゃ

イベントでここに来て、俳句シャッフルゲームやったなあ


上の句、中の句、下の句だけをみんなで紙に書いて
ランダムに組み合わせ
ビックリ俳句の出来上がり、って趣向

とんでもないのが出来て大笑い
でも意外に、半分くらいは情緒のある句だったのよね

今度もやろうかな

隅田川
ここまで来たら、隅田川に出なきゃね

芭蕉庵が実際にあった場所の芭蕉稲荷神社

芭蕉展望庭園
芭蕉が隅田川を眺めています

この芭蕉さん
時間によって向きが変わると言う噂があったんです。
ここに3回目ですが、いつもこの向きなんですよね。

ネットで調べてみました。
夜になると90度向きを変えるそうです。
そりゃ分からないはず。
夜に来たことはありません。

深川稲荷
布袋尊

出ました。私が大好きな布袋さんでございます。
やっぱり見て一番嬉しい気持ちになるのは布袋さんよね

雄松院
駅で言うと、森下から清澄白河までやってまいりました。
雄松院
渡会園女(わたらいそのめ)の墓があります。

渡会園女とは、
斯波一有(しばいちゆう)の妻
斯波一有は伊勢の眼科医で俳人。
影響を受けて自分も眼科医で俳人。

旅の途中に伊勢に来た芭蕉に会うことが出来
いっそう俳句に力が入る
芭蕉の門下に入る。
もっと俳句が出来る場所に引っ越そうと大阪に。

芭蕉がまた旅で大阪を訪れた時、夫婦のお宅で歓迎を受けている

残念な事に、そのあとすぐ、芭蕉は原因不明の病気で死んじゃった。
園女が一生懸命作ったキノコ料理が悪かったんじゃないかというのが有力な説。

江戸検定でも定番の問題。
芭蕉は大阪で亡くなりますがその死因はなんでしょう
はい、キノコ

証拠がある訳じゃないし、悪気はないんだから、良いじゃないのよね

春の野に心ある人の素貌(すがお)哉
心ある人のすがお、というのは、恋をしているということだそうです。
一有を想った句でしょうね

一有が亡くなったあとは、芭蕉の一番弟子、宝井其角(たからいきかく)を頼って江戸に来ます。
富岡八幡宮の側で眼科医を開業しています。

お隣の霊巌寺

何度も来ていますので、さらっと確認だけ
松平定信の墓があります。松平定信ファンとしてはやっぱりまた来ませんとね

雲光院
徳川家康の側室、阿茶局(あちゃのつぼね)の墓があります

あれ?おかしいな
去年の小石川の七福神の途中で、お墓あったよな
お寺の名前何だっけ
調べました。
茶阿局(ちゃあのつぼね)。宗慶寺です。
どちらも家康の側室です。
紛らわしいけど違う人。

阿茶局はほぼ正室なくらい家康に愛され
政治的にもろもろ大活躍しましたので
間違わないと思いますが
茶阿局を呼ぶときはこんがらがりますね

阿・・、間違えた
あちゃーっ

龍光院
毘沙門天

ご開帳は正月だけで、像はないみたいです。

円珠院
大黒天

とても良いお顔です。
いっぱい大黒様は見てきたけど
ここの大黒様が一番好きです。

滝沢馬琴誕生の地


ここも3回目
最初は工事中で入れなかったんですよね。

古典文学最長の「南総里見八犬伝」28年もかけて完成しました。
最後の方は失明しちゃっていて、娘に口述筆記してもらった。
このモニュメントは、国立国会図書館に所蔵されている106冊分の原本の寸法を測り、
2つの山に分けて積み重ねられた形をしています。(約60センチメートル)

写真を撮ろうとしたら本(南総里見八犬伝)の上に図書館の貸出しカードが置いてありました。
南総里見八犬伝は私が借ります、という意思表示でしょうか。
ここは、深川ふれあいセンターや児童館等の江東区の公共施設なので
カードを中に届けてきました。

採茶庵(さいとあん)

さっきは、芭蕉庵でした。
ここは、杉山杉風(すぎやまさんぷう)という芭蕉の弟子の採茶庵です。
芭蕉は、奥の細道に出発する前、芭蕉庵を引き払っちゃって、この採茶庵に居候

奥の細道に出発するのはここからということになります。

よいしょっと。出掛けるとするか

ここから、隅田川を船で上がり、千住大橋のところから、徒歩開始になります。

長くなりました。
続きは明日ね

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)