[首相]41-3 三木武夫。三木おろしとの対決

[首相]41 三木武夫。議会の子
[首相]41-2 三木武夫。クリーン三木
の続きです

三木武夫

1976年(昭和51)1月下旬から始まった国会で、
三木は「景気浮揚に全力をあげる」と決意を表明。
だが、国会審議が順調にいっていた2月初め、
ワシントンからの1本の外電が政界に激震をもたらした。
アメリカの航空機メーカーのロッキード社が
自社の航空機トライスターの売りこみのために、
30億円にのぼる裏金を日本の企業や右翼に流し、
その一部が日本政府高官に渡されたという内容だった。

ロッキード事件
野党は衆院予算委員会を舞台にいっせいに追及を始め、
ほかの審議はストップした。
三木はすぐさま真相究明の立場を表明する。

「政府高官」には田中角栄が含まれているだろう
そうなれば自民党が打撃を受けることは必至である。
「三木はロッキード事件追及によって内閣の延命をはかるつもりだ」という不満が党内に満ちた。

椎名副総裁は三木のやり方を「はしゃぎすぎ」と評し、
田中、大平、福田と密かに会談をもち、
総選挙前に三木退陣というシナリオで一致をみた。
いわゆる「三木おろし」である。

しかし、この秘密会談は読売新聞にすっぱ抜かれる
世論から「三木おろしはロッキード隠しだ」と大きな批判を受けた。
ロッキード疑惑解明という大義名分をかかげた三木は
世論を味方につけ、三木おろしを頓挫させた。

6月、党内のごたごたに愛想をつかすかたちで、
河野洋平ら若手議員6名が党を離脱して新自由クラブを結成

7月27日、ついに田中前総理が外国為替管理法(外為法)違反などの容疑で逮捕された。

ふたたび「三木おろし」が始まる。

田中派、福田派、大平派の反主流派3派と
椎名派ら中間3派の総勢270余名は、
三木おろしの推進体となる挙党体制確立協議会(挙党協)を発足。
大平と福田は三木に退陣を迫るが、
三木が尋ねた
「私のあとはどちらがやるんですか」
「まだ決まっていない」
「決まっていないのでは辞めるわけにはいきませんね」

挙党協と三木の対立は党分裂の危機をはらんだが、
党幹事長の中曽根の調停により
三木が臨時国会で解散しないと約束することで収拾し、
三木の進退は三木自身が決めることとなった。
このときの「三木おろし」も、三木の粘り勝ち

9月15日、三木は内閣を改造して、
福田、大平以外の反三木閣僚を更迭した。
こうして混乱する政局のなか、
12月5日に戦後初めての任期満了による衆議院議員総選挙が行なわれた。

三木おろしの挙党体制確立協議会(挙党協)が独自の選挙本部を発足。
自民党の選挙運動は、事実上、分裂状態で進められた。

挙党協の働きかけで、全国で三木総裁の来県拒否がおこり、
三木の地元の徳島でも、党の県連から締めだされた。

結果、自民党は前回の総選挙を22名も下回る249名しか当選できず、
結党以来、初めて過半数(256議席)を割った。
無所属議員12名の追加公認でようやく過半数を上回ったものの、
この選挙により、衆参ともに与野党伯仲状態となる。

三木は「敗北の責任は総理・総裁である自分が負う」と退陣を表明する。

前総裁逮捕という前代未聞の事件のあとでの選挙
これだけの減でよく持ちこたえたと言えるかも知れない

12月23日の両院議員総会は、福田赳夫を新総裁に選出。
翌日、寒風吹きすさぶクリスマス・イヴに、三木内閣は総辞職した。

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[日本語の発音] 漢字によってもたらされた発音

[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった
[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
[日本語の発音] 発音通りに書いた時代
[日本語の発音] ゐ、ゑ、を
[日本語の発音] 漢字仮名混じり文の開発
[日本語の発音] 室町時代。じとぢ、ずとづの統一
の続きです

ここで、もともとの日本語の発音が漢字の導入によって変わってきた点をまとめたいと思います

発音
もともとの日本語の発音の大きな特徴は、音節が母音で終わるというものです
日本語とイタリア語はこの特徴を持っていますが
英語なんかは、子音で終わる発音がいくつもある

私は関西人で、関西人の発音は母音が強い特徴があるので
英語の発音がとても苦手
shockはショック[shokku]と母音までつけて発音する

漢字
ところが中国語は、子音で終わる発音がある
中古漢語には、-k -t -pをはじめ -m -n -n等、子音終わりの漢字があった。
-k -t -pで終わる漢字は三内入声音(さんないにっしょうおん)という。
「三内」とは、喉、舌、唇のうち、どこで発音するか。
-k(喉内)、-t(舌内)、-p(唇内)

最初は、忠実にそのまま発音するように頑張った
ところがだんだん、ムリムリってことで母音をつけて発音するようになっていく
仮名で表現できないと、発音が説明しづらい訳です

◆喉内音-k
「ク」で表すことが多い。
覚(カク)、石(サク)、木(モク)、駱(ラク)、徳(トク)、黒(コク)、国(コク)、楽(ラク)、足(ソク)

◆舌内音-t
「チ」あるいは「ツ」で表すことが多い。
褐(カチ)、纈(ケチ)、室(シチ)、筆(ヒチ)、逸(イチ)、鉢(ハチ)、仏(フチ)、埒(ラチ)、薩(サチ)

◆唇内音-p
唇内入声音は最初「フ」によって表記されたが、後に 「ウ」に替わって転写された
雑(サフ)、葉(エフ)、甲(コフ)、塔(タフ)、蝶(テフ)、挿(サフ)、立(リフ)、執(シフ)、業(コフ) 等々

一番苦労したのが唇内音-p
今まで説明して来たように、ハ行の発音自体が変わっていくので
最初、フが唇内音-pにかなり近かったので「フ」にしていたんですが
日本語の発音自体が「ウ」に近くなり「ウ」の表記に変わっていく

当初のてふてふは蝶々な訳です

あれ?と思うものがあります
◆唇内音-pの例の中にある雑(サフ)、立(リフ)、執(シフ)
なんと、これらは、表記を間違える

雑(サウ)、立(リウ)、執(シウ)とすべきところ
雑(サツ)、立(リツ)、執(シツ)にしちゃった

間違えちゃった方で定着はするものの、やっぱり変
ってことで、一部に正しい読み方も残っている
固執は「こしつ」だけでなく「こしゅう」とも読むし
建立「こんりゅう」雑兵「ぞうひょう」雑巾「ぞうきん」なんてのもある
これらはいわゆる漢音呉音とは別の要因での漢字の二通りの読み方

この話は私にとってとても興味深くワクワクするものでした
以前書いた漢字の音読みの二音目の話に関連するからです
漢字の音読み
これを元に、ワープロの新しい入力方法を考案し
電気メーカーに売り込んだりしました
裏付けとなる理屈と歴史は分かったのはとても嬉しい

拗音
もともとの日本語の発音にはなくて漢字によってもたらされたものに拗音(ようおん)がある
小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」です
江戸時代に完全に定着します
ただ、小さく書くようになったのは明治になってからです

拗音の表記は、外国語を取り入れるのにとても役立ちました
キャンプやショック等です
ただ便利過ぎるデメリットもあります
日本人は外国語の発音が下手とされるのは
何でもかんでもカタカナに書いて発音を理解してしまうためです

ここまで来て大きな疑問
これだけ詳しく色々考察してくれているのに
なぜ「ん」について触れていないんだろう
もともとの日本語の発音になくて
漢字によってもたらされた発音の、最も大きなテーマは「ん」だと思うけどなあ
もともとの日本語には「ん」はありませんでしたから
「あまてらすおおみかみ」「おおくにぬしのみこと」
「ん」は使わない
以前に書きましたので、よろしかったら
「ん」がなかった
「ん」がなかった。続き
「ん」がなかった。続きの続き。空海のチャレンジ
「ん」がなかった。続きの続きの続き。「ん」が生まれる

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[岩宿]4 戦争とおばさん

[岩宿] 相沢忠洋というひと
[岩宿] 一家団らん
[岩宿]3 少年の孤独
の続きです
考古学の歴史を抜本的に塗り替える大発見をした、相沢忠洋さんの自伝「岩宿の発見」から

志願兵として
相沢忠洋少年も、青年となり
日本は戦争へと突入していく

相沢青年は、志願兵となり、横須賀へ

駆逐艦「蔦」を作る仕事を担当
大工部門を受け持っている工員さんと仲良くなる

「兵隊さん、下宿は決めましたか?」

「まだです」

「どうです。広くはないが家でよかったら来ませんか」

休みには何度か泊まらせていただいた

3度目に訪ねたとき、おばさん(工員さんの奥さん)もおられて
こころづくしのごちそうをいただき、賑やかに雑談した
たまたま鎌倉の話になった

「鎌倉は子供の頃に住んでいたので知っていますが、あまり行きたくない」

「鎌倉のどこに住んでいたのですか?」

「浄明寺です」

「・・兵隊さん、お名前は?」

「相沢です」

おばさんは一瞬驚いたようだったが、取り繕うように別の話題に移った

あくる朝、帰るとき、おばさんも同じ方向に用事があるので一緒に行きましょう、ということになった

鎮守府正門近くになった時、おばさんが突然立ち止まった

「洋(ひろ)ちゃん、元気で大きくなったわね・・・」

おばさんは、11歳の時別れたお母さんだった

まったく戸惑ってしまい、その後何を話したか覚えていない

その後は上陸が許されない日々が続く
いよいよ出港が近くなった日、短時間だったが上陸が許された

急いで、工員さんの家を訪ねる
不在
思いきって、お母さんの職場先を訪ねてみた

近くの防波堤の上に並んで腰をおろした
「出港なんだね」
包みの中から大きなおむすびを取ってくれた
生まれて初めてのなんとも表現のできない味だった

この時、お互いに何を話したかも覚えていない
ひどく長い時間だったようにも思えるし、ひどく短かったようにも思える

「くれぐれも体に気をつけて」

当時、出港してしまえば、再び生きて再会出来ることなど思いもよらなかった

出港の日、工員さんも見送りに来てくれた
親子であることはまだ知らない

出港後、甲板に立ち、逸見の山の方を眺めた
その一角にお母さんがいる

季節が巡り夏になった
「蔦」は山口県の小さな漁村の海岸に敵機の攻撃を避け擬装接岸していた
8月6日、北東方の一角で異様な閃光が起こった
その方向に入道雲のようなものが広がっていた

全員が甲板に集められ
出撃命令が出されるであろうことが告げられる
それからの10日間は慌ただしかった

8月15日「総員集合」で甲板に整列
スピーカーから玉音放送が流れた

呉港へ終結せよとの命令が出る
自爆か、突撃出港かのいずれかだと思った

呉で伝達があった
「即時帰郷準備をするように」

戦争が、終わった
帰れる

19歳の夏だった

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[ことば日本史] 座敷

「ことば日本史」からの引用です。室町時代から

座敷
平安時代に登場した寝殿造の建物では、
部屋の間仕切りはなく、床は板敷だった。
室町時代半ばになると、寝殿造を母胎として、
生活様式の変化にあわせた変容と改良が加えられ、
書院造が登場する。
書院造では、部屋は細かく分けられ、
畳が敷き詰められた座敷が設けられる。

畳は、もともとは菅などを手編みにしたムシロ、ゴザ類の総称で、
それを幾重にも重ねたものを床にして寝ていた。
つまり、寝具だった。
また座るための敷物として使われることもあったが、
使わないときには、巻いたりたたんだりして片付けるものだった。
畳んだので畳なのだ。

ちなみに、掛け布団にあたるものは、衾(ふすま)といい、
麻布をつぎあわせたものだった。

十五世紀後半には、部屋全体に畳を敷きつめるようになり、
その部屋を座敷と呼ぶようになるが、
もとは来客のときに畳などの座具を敷いて座れるようにする部屋のことを座敷といっていた。

座敷が、畳敷に加えて、床の間や違棚(ちがいだな)、付書院(つけしょいん)などの座敷飾りをそなえ、
縁側を隔てて庭に面するという形式の部屋を意味するようになったのは、
十六世紀末以後のことになる。
座敷に、厚い畳が敷きっぱなしにされ、
室内を装飾する意匠を集約する場として床の間が設けられたことは、
日本人のライフスタイルと美意識に転換をもたらした。

たとえば安土桃山時代には、「畳割り」といって、
畳の大きさの単位にあわせて建具どの規格や部屋の大きさが決められるようになる。
畳は、家屋や建具の大きさを決定する単位として機能するようになったのだ。

町屋でも畳が敷かれるようになるのは江戸時代のことだが、
元禄時代ともなれば、大坂で畳や「畳割り」の建具、
天井などの大量生産が行われるようになる。

こうして日本人の室内空間についての感覚は、
畳を単位とするようになった。

ただし江戸では、「柱割り」といって、
柱と柱のあいだの距離を基準として部屋の大きさが決められており、
このことが、今日でも「江戸間(田舎間)」と「京間」の違いとして残っている。

座敷が登場する以前は、
茶の作法も、禅寺でのスタイルである椅子を用いた形が基本だった。
畳に座して茶会が行われるようになると、
座法も代わり、茶の作法も礼法もそれに対応するものが生まれ、
調度品も座敷にふさわしいものが好まれるようになる。
当然、美意識も変わる。

畳に座って床の間に目を向けるときの「視座の低位化」など、
「畳の出現と普及は、日本人の振舞=行動様式や美意識のあり方を、
畳との密接な関わり方のなかで育てることになった」のである。
それは「生活空間の微小化、生活感覚の微細化」としても現れた。

たとえば四畳半
次回は、四畳半についてもう少しお話しします

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