国分寺を歩く。その1

長女が大阪から来ていたのですが、
西国分寺で用事があって、そのまま大阪に帰るということで、
西国分寺駅まで車で送っていくことになりました

せっかく西国分寺駅まで行くのであれば、
西国分寺あたりを散策しよう

随分昔になりますが、ウォーキング同好会の初期の頃
Sさんに企画してもらい、お鷹の道のウォーキングイベントをした思い出の地
あのイベントでMさんとも出会った、記念すべき場所

行ったことあるし、そこ以外でとも思ったのですが
いまいち良いところが見つからない
酷暑だし、まあちょろっと見て帰るとしよう
確か、万葉庭園があったな
万葉集で読まれている植物があったはず

そう思ったのですが、ちょろっとなんて、とんでもありませんでした

レポートしてまいりましょう

国分寺公園
とても広い芝生が気持ちいい公園
その真ん中あたりの駐車場に車を止めました

こもれび広場



隣に雑木林もあります

道路を挟んで向こう側にも芝生の公園があります
行ってみましょう

円形広場

ここに鉄道の学校があったそうです。
その記念碑


無茶苦茶広い

おっ、ミストシャワー
涼しいっ

気づいたのですが
寄ろうかなと思った万葉庭園は、最初に行ったこもれび広場側
順番間違えた
最初に円形広場行ってからこもれび広場行きゃよかったのか
こもれび広場2回行くことになる
ひぇーー

再度、こもれび広場に行ってから、万葉庭園方面へ向かいます

■土師竪穴(はじたてあな)住居跡

■八幡神社

■薬師堂


どうしようかな
ここまで来たら
以前来ているけど、国分寺跡、ちょっとみてから行くか

そう思ったのが、大きな転換点になります
このあとすごいことになるんですが
続きは月曜日ね

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[縄文]2 ムラづくり

[縄文] 縄文人は生きている
の続きです。

わが東久留米市の小学生たちが、地元で発掘された縄文遺跡(新山遺跡)に触発され、
卒業記念に縄文時代の版画集を、専門家の先生を招いて説明を聞きながら作った
その先生は出来栄えに感激して本にして出版したのが「縄文人は生きている」
その本から引用しつつ、縄文時代についてお話していこうと思います

縄文人の生活の舞台
縄文時代になって、人びとは生活に適した場所に一定の期間住みつき、
定住生活をはじめた

そして、竪穴住居はいくつかが集まって、集落をかたちづくっていた。
今日でいうムラの原形である。
それは時代がくだるにしたがってイエの数を増し、大きなムラとなった。

約2万年前から1万8000年前は、氷河時代最後のたいへん寒い時期であった。
しかし1万年前頃をさかいとして、気候はだんだんと暖かくなってきた。
それとともに、西日本の海岸地帯の落葉広葉樹林(コナラ・クリ・ブナ・トチノキなど)と、
さらにその南からは照葉樹林(シイ・カシ・クスノキ・タブなど)がだんだんとひろがり、
いまから約六〇〇〇年前ごろまでには、落葉広葉樹林は東北地方全域、そして照葉樹林は関東地方までひろがり、今日の日本列島の植生が定着した

縄文人はムラをつくるために、この深い森林を切りひらいた。
そして、日常の生活にかかすことができない燃料や建築材などの木も、
ムラの周囲の森林から切り出したため、そのあとは明るいひらかれた空間となった。
そうした場所をこのむクリやクルミは、二次林として成長したし、
フキ・ウド・ミツバ・ワラビなどの植物も成長することができた。
これらはいずれも、縄文人が重要な食料資源としてきたものである。
定住は縄文人にとって、思いがけない幸をもたらした。

縄文人は川や湖にめんした台地の上にムラをつくり、
ムラの周囲にはひらかれた二次林、そのおくには深い森林があるという風景の場所を、
その生活の舞台としたのである。

ムラづくり
1旅の一行がさしかかる

縄文時代は自然物にたよる採取経済社会であったために、
人口の増加や環境の変化などによって、ムラびとたちの食生活をささえるだけの、自然のめぐみをえられなくなることがたびたびあった。
こうしてムラびとたちは住みなれた場所をはなれて、新しい土地をもとめて旅にでる。

「もうすぐだ、がんばろう」ムラの長の言葉に勇気づけられて、
人びとは一歩一歩大地をふみしめて歩いていく。

縄文時代のムラの移動は、あてもなくさまようような放浪の旅ではない。
日常生活のなかでたまたま狩りに出かけた土地や、
ふだん交流していた遠くのムラも知っていたから、いざムラをはなれる時には、
次の住いの場所はどこがよいかという土地勘は、きっとあったにちがいない。

2川を見つけた

縄文人は川やわき水のある近くにムラをつくって住んだ。

きれいな水はムラびとたちの貴重な飲み水であった。
川には魚もかりよういたが、そこには動物たちも水を飲みにくる。
狩りや漁にとっても格好の場所であった。
「わあ!きれいな水だ。ほら、あそこに魚もいるぞ!」
旅をしてきた人びとはこの土地が気にいった。

3ああおいしい

武蔵野台地は、水の少ない土地だが、標高が50メートルから60メートルのあたりには
たくさんのわき水があり、そこからわいた豊かな水が集まって、いくつもの川が流れている。
そのひとつが黒目川
縄文人もこの水でのどをうるおし、生活をするうえでの貴重な水資源としていた。

4がけのうえにはい上がる

わき水のある川に面した台地のうえは、ムラをつくる場所に適していた。
広い平らなところがあって、日あたりや風とおしがよい
まんがいち、台風や大雨で川があふれても、ムラのなかまで水がはいってくる心配はない。
高台は川に水を飲みにくる動物の動きを知るのにもぐあいがよく、
なによりも見はらしがよかった。

「このうえだ!さあ、のぼろう」

こうして新しいムラの場所にたどりついた一行は、
きれいなわき水と川を見おろす高台によじのぼった。

まだまだ続きます。
この続きはシリーズの次回

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[神社] 宇賀神。蛇の格好の神様

日本の神様シリーズ

宇賀神(うがじん)

とぐろを巻いた状態の蛇を胴体とし、その上に人間の頭部が載っている姿(人頭蛇身)の神像があります。頭部は男性だったり女性だったりで、年齢は一定していません。
福をもたらす神とされる宇賀神(うがじん)です。
今年、2025年の十二支は巳なので今年注目の神様。

この宇賀神は、どう誕生したのか、よくわかっていません。
名前が近いことから、『古事記』『日本書紀』に登場するウカノミタマノカミと関連があるとする考え方もあります。
ウカノミタマは稲の精が神格化された神で、食物や五穀をつかさどるとされます。

宇賀神の胴体が蛇である理由について、
江戸時代中期の天野信景(1663~1733年)(あまのさだかげ)という国学者は、
「宇賀」が古代インドのサンスクリット語の「ウガヤ」に当たり、白蛇を意味するとしています。ただ、これはいくつかある推測のひとつでしかありません。

白蛇そのものを宇賀神と呼び、神様として祀る例も見られます。蛇はよく田にいて、米を食い荒らす鼠の天敵でもあるため、豊作をもたらす田の神とされることがあります。この蛇が、五穀の神のウカノミタマを経由して、宇賀神と結びついたようです。
宇賀神は、神仏習合の考え方のもとでは、
七福神のうちの1柱である弁財天と同一視されました。

弁財天の像の頭部にある宝冠の中に、
人頭蛇身の宇賀神像が小さく作られていることもあります。
竹生島宝厳寺の宇賀弁財天

このように宇賀神が合体した弁財天は特に、宇賀弁財天と呼ばれます。
弁財天と結びついたことで、宇賀神に対する信仰はさらに広まりました。

私は東京の七福神巡りは随分行きました
感覚的には、弁財天のうち、半分ほどは宇賀弁財天として蛇が絡んでいる
例えば小石川七福神の徳雲寺の宇賀弁財天

上野不忍池の宇賀弁財天

宇賀神はまた、稲荷神とも習合しました。
そのため、多くの稲荷神社にも祀られています。

[神様]シリーズはこちら(少し下げてね)

お茶の文化創造博物館に行ってきました

おーいお茶ミュージアムに行ってきました
の続きです

お茶の文化創造博物館
おーいお茶ミュージアムの隣になります
こちらは有料なので、お客様もまばら

あっ、笠森お仙だ
江戸時代、明和の三大美人の一人でお茶屋さんの娘


浮世絵の確立に大きく貢献した、鈴木春信が書いたお仙

その横にあるのがこんなお茶があったらいいな、のお茶の木

お茶の歴史
最初に日本にお茶を持ってきたのは、天台宗の開祖最澄
団茶と言われ、茶葉を蒸してすりつぶし固形状にして乾燥させたもので、
飲むときは火であぶってから粉にして湯の中に入れて煮る
健康のために飲む薬に近い感覚
あまりに高級すぎて、一旦廃れます

再度、お茶を日本に持ってきて広めたのは、鎌倉時代、臨済宗を始めた栄西
碾茶(てんちゃ)や挽茶(ひきちゃ)と呼ばれるもので、茶葉を粉末状にし、湯に溶かして飲む、現在の抹茶のようなもの

釜炒り製法の煎茶(せんちゃ)を日本に広めたのは
江戸時代、最後の仏教宗派黄檗宗(おうばくしゅう)の隠元(いんげん)
隠元はいんげん豆や孟宗竹も広めたすごい人
煎茶とは、粉にする抹茶と違い、煎じて飲むもの
急須に入れてお湯を注ぐ一般的スタイル

お茶の葉って取れたすぐあとから、どんどん発酵していくんだけど
発行する前に蒸して、揉みながら乾燥させるのが煎茶
発酵しちゃうと、紅茶になる
半分発酵なら烏龍茶

お茶弁当
屋外でお茶とお弁当を楽しむため、コンパクトに収納出来る
屋外でもお湯を沸かしてお茶を飲めるところまで全部コンパクト


茶道
びっくりしたのが茶道
茶道って、千利休が確立した、耳かきみたいので抹茶の粉を入れて、シャカシャカ
お茶碗回して、良いお手前でした、ってやつだと思っていたら
それって茶道のうちでは半分で茶の湯と呼び
煎茶による茶道もあるんですと

煎茶による茶道の道具

茶の湯(抹茶)による茶道の道具

まもなくお茶シアターが始まりますが、よろしかったら。10分程です

はーい

お茶の歴史やお茶畑の様子を列車に乗って旅をするという趣向
ここは鉄道の始まった新橋駅なので、ちゃんと意識しています
かなり面白い内容でした

隣の部屋に移動すると、
これから、お茶運びのからくり人形の実演をしまーす

おおおっ、そのような素晴らしい

動画を録ったので見てね

川崎の東芝未来科学館でも見たなあ
東芝の創業者、田中久重の作品。別名からくり儀右衛門(ぎえもん)
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。続き

川崎では動きは映像で見ただけだけど
ここは実際に動くところが見れる
大興奮
当時のものそのものではないけれど、忠実に部品から再現
動力だけは今の技術のモーター。当時はクジラのひげのぜんまいバネ。

幕末から明治にかけて、日本の輸出品の代表は生糸と並んでお茶
お茶箱には「蘭字」と呼ばれるきれいなラベルが貼られていた

いかん
もう11:55
13:00に家にたどり着くのは不可能

13時を10分ちょっと回ったところで清瀬駅
カミさんからラインで矢のような催促
バスに乗り遅れちゃう、と玄関で待ち構えていた

どうや、間に合ったやろ

どこが!

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